名門校、未来への学び

2019年3月19日

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 日本を代表する名門高校はイノベーションの最高のサンプルだ。伝統をバネにして絶えず再生を繰り返している。1世紀にも及ぶ蓄積された教えと学びのスキル、課外活動から生ずるエンパワーメント、校外にも構築される文化資本、なにより輩出する人材の豊富さ…。本物の名門はステータスに奢らず、それらすべてを肥やしに邁進を続ける。

北野高校(撮影・安藤青太)

 

 学校とは単に生徒の学力を担保する場ではない。どうして名門と称される学校は逸材を輩出し続けるのか? Wedge本誌では、連載「名門校、未来への学び」において、名門高校の現在の姿に密着し、その魅力・実力を立体的に伝えている。だから、ここでは登場校のOB・OGに登場願い、当時の思い出や今に繋がるエッセンスを語ってもらおう。

 今回取り上げた北野高校は言わずと知れた、大阪一の名門。1950年生まれの中村史郎さんで81期生なわけだが、それだけの歴史と伝統を誇るのだ。最近でも橋下徹や笠原健治といった、著名人を世に送り出しているが、古くは佐伯祐三、手塚治虫といった美的センスに長けた先達も輩出している。

中村さん(筆者撮影)

 中村さんは武蔵野美術大に進学後、いすゞ自動車に勤め、デザイン部長をしていた1999年6月末、ニューヨークのヘッドハンティング会社を通じ日産自動車デザイン本部の本部長として迎え入れられた。小学校の頃から抱いていた夢を高校時代に膨らませ、念願のカーデザイナーとなるだけでなく、日産という巨大企業の専務にまで上り詰めた。

 しかし、気さくな人柄はおそらく高校時代から変わりあるまい。アメリカ、ヨーロッパと海外勤務を重ね、国際水準のデザインを吸収できたのも、北野生の地金を感じる点だ。単なる進学校ではない、精鋭の集まる集団で個性的な級友に囲まれてきたため、自然と創造と経営の両面が理解できるようになったのだ。

 「カーデザイナーには小学校の頃からなりたいと、当時はそういう言葉も一般化していませんでしたが、はっきりと決めていました。中学までは鉄道マニアでもあり、車と行ったり来たりでしたけどね(笑)。

 そもそも学校中心の生活をする方ではない。趣味や自分のやりたいことを優先するタイプ。今でいう帰宅部に近いけど、ひとまず部活にはなにか所属しておかないと――という雰囲気だったし、仲のよい友達も入部したので、放送部に入りました。

 3年の文化祭ではレコードコンサートをしましたよ。ジョン・コルトレーンなんて、わかってもないのにかける(笑)。当時の金額でLP1枚2000円はする時代でしたし、そんなにレコードもコレクションしていたわけじゃない。放送部の部室からそれっぽい盤を持ち出したりしてね。

 ちょうどコルトレーンが死んだ、1966〜67年頃。大阪の高校生にそんなジャズ好きもいない。周りでも一人二人くらいだったかなぁ、ジャズ談義をする友達。それまではもちろん、ラジオから流れてくる洋楽が好きだった。ビートルズとかもその頃だし、友達はみんなベンチャーズ(笑)。でも、もっと違う音楽があるのでは?と背伸びして、梅田まで出てはレコードを漁っていました。

 なんでもやる側に回らないと気が済まないんです。車だってそう。普通は見ていてカッコいいとか、ただ乗るだけなんだけど、僕はデザインしてみたいとずっと思っていた。ジャズも聴くだけでは物足りなくて、そのうちコントラバスを買って、演奏し出したんです。受験も控えているというのに(笑)。ベースはそう、形も流線型で女性的。車にも似ていますね。いすゞ時代のヨーロッパ駐在中、イギリスでバイオリン製作を学んだこともありますよ」

 高校時代には音楽を通じ、得難い友も得た。その友人とは、中村さんより一つ後輩で、酒井紀司さんといった。残念ながら若くして癌で亡くなったが、京大に進み、セミプロのようにずっとプレイし続けたそうだ。

 「レコードコンサートの時、一人だけ一生懸命聴いてるヤツがいたんですね。お互いジャズ好きということで親しくなって、一緒にジャズ喫茶に入り浸ったりしたんだけど、途中からそいつはピアノを習い出し、自分も『なんかやらないかんな』と、僕はベースを始めたんです」

 中村さん自身、今でも演奏を続け、大学の頃にはプロになろうか迷った時期もあったとか。しかし、カーデザイナーになるという幼少期の夢が岐路に立つ度に甦った。

 「北野は生徒がみんな京大、阪大を当たり前のように目指す学校でしょう。そして、官僚や大企業の幹部になっていく。しかし、北野でも美術部とかにいて、芸大に行くのもほんの少しはいたんです。ただ、僕は美術全般にはあまり興味がなく、車のデザインという非常にフォーカスされた分野に進みたかった。でも、当時は情報がないんですよ。今でも出ている『カーグラフィック』という車の専門誌ぐらい。

 児玉英雄さんって、オペルで40年も活躍したデザイナーがいて、まだ学生なのにそこで車のイラストレーションや記事を投稿していたんです。その絵がすごく綺麗で憧れだった。そして、彼が多摩美を卒業してオペルに行った――と書いてあったんですよ。

 そこでようやくどうしたらカーデザイナーになれるかわかって、入試の2~3カ月前に突如、美術の本とか画材を適当に買ってきて練習したんですけど、そんなんで間に合うわけがない(笑)。止むなく浪人した結果、武蔵美(ムサビ)に引っかかった」

 「土壇場に追い込まれないと物事を真剣に考えない」と自己の性格を分析する中村さんだが、そんな融通無碍なスタンスの方がクリエイティブでは成功する。むろん、それまでに積み重ねてきたことが肝要で、北野で知的な刺激を受けながら、かつ伸び伸びと過ごしてきたおかげで、中村さんには自分でも自覚しなかった底力がついていた。

 「僕はデザインのトップになろうとか、独立開業しようと思ったことは一度もないんです。いすゞという面倒見のよい会社で思う存分やらせてもらえた。絵を描くのは好きですし、自信もありましたが、管理職に進む30代後半くらいには、もういいかなとも思えた。というのも、上に立ってトータルに仕事を完成させる方に魅力を感じたんですね。自分で絵を描くより、自分より絵の上手い人に任せたほうがいい。ただ、口はちゃんと出し、さらによくしていく。そういう役割のほうが向いていると思えた。それが組織にいる面白みでもある。

 理想のデザインは一人の強い思いが宿った車ですが、今や車一台開発生産するのに 200億から300億円はかかる。会社として絶対に失敗ができないから、どうしても大勢の意見を集約して曖昧になる。そんな時、作り手の思いを経営側にしっかり納得させられるかどうか、それがデザインのトップの役割です。

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