迷走する日本の「働き方改革」への処方箋

2019年4月3日

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立花 聡 (たちばな・さとし)

エリス・コンサルティング代表・法学博士

1964年生まれ。早稲田大学理工学部卒。LIXIL(当時トステム)東京本社勤務を経て、英ロイター通信社に入社。1994年から6年間、ロイター中国・東アジア日系市場統括マネージャーとして、上海と香港に駐在。2000年ロイター退職後、エリス・コンサルティングを創設、代表兼首席コンサルタントを務め、現在に至る。法学博士、経営学修士(MBA)。早稲田大学トランスナショナルHRM研究所招聘研究員。

 

 議論や異議申し立てなく、上位者の意思・指示命令に従う代わりに、組織から守られ、定年までの雇用やキャリアが保障される。日本人サラリーマンの基本的な立場である。権威への服従・忖度は、「深く考えること」を排除する(参照:ゴーン被告報酬にサイン、日産・西川社長はなぜ「深く考えなかった」のか?)。「深く考えること」が排除されたところ、「議論」も問題視される。あらゆる前提を排除するゼロベース思考は、「もう1人の自分」から自己否定・現状否定される結果をもたらし得るため、事柄によってはタブーとなる。

DigitalVision Vectors / erhui1979

 今回は、その「議論」をめぐって考察したい。

「議論」のタブー化

「深く考える」ことと「議論」は双子である。深く考えても、議論しなければ、企業経営には何ら意味もなさない。

「納得できない」「合点がいかない」「腑に落ちない」……。日本語の表現は実に多様である。英語の「disagree」は、「私はあなたの意見に同意しない、反対する」という「主体の客体に対する指向性」が非常に明確である。これに対して、日本語の表現はいずれも、客体指向がなく、自分の中で完結する「自己完結型」になっている。いくら納得できなくても、合点がいかなくても、腑に落ちなくても、それはあくまで自分の中の葛藤であり、相手の意思や行動に反対や阻止の意思を直接にぶつけるものではない。しかも、このような間接的な反対すら相手に表明しない(できない)のが日本人である。負の意思や感情を自分の中に抱え込む。

 日本人サラリーマンは一般的に、たとえ深く考えたとしても、会議などの場では本音をぶつけて議論することができない。議論を避けるために、根回しするわけだ。結局のところ、各方面の利害関係の調整になり、問題の本質に触れずに折衷案で折り合いをつけることが多い。

 そこから理不尽な結論が生まれても、腑に落ちないことがあっても、私的な場で愚痴をこぼしたり、酒場に持ち込むしかない。やけ酒を呷りながら、議論を展開し本音を仲間に打ち明け、似たような境遇にある者同士が傷の舐め合いをしたりする。

 私も外資企業に入社したばかりのときは、ロジックに長ける欧米系の外国人と議論したら、あっという間に撃沈されていた。彼たちは見事に三段論法を使いこなす。 普遍的な法則と個別の事実を挙げ、そこから結論を導き出すという演繹法には反論する余地がない。ただ面白いことに、議論はあくまでも議論であり、議論が終わると、連れ立ってパブに駆け込むことも珍しくない。日本人の場合、議論を仕掛けたら、すぐに攻撃と捉えられ対立が生まれる。

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