日本は、「先進国から新興国へ」という、世界経済でかつてない環境変化に対応することができるのか。未曾有のことに立ち向かうとき、参考になるのはやはり歴史である。戦後、産業構造の変化への対応が遅れ、長らく低迷を続けた「大阪」の姿を振り返る。
大阪万博を境に衰退し始めた大阪
最新の県民経済計算で、ここ10年間(1997年から2007年)の県民総生産(実質)の推移をみると、大阪府は6.7%減。かろうじて全国第2位は維持したものの、1位の東京都6.5%増、3位の愛知県9.0%増に比べると大きく見劣りしている。
産業別にみると、それぞれの特徴がより顕著に現れる。東京都は第2次産業で24.2%も減少したにもかかわらず、第3次産業が12.8%増加することで、全体の増加を確保。愛知県はどちらも10%近く増加している。それに比べ、大阪府は第2次、第3次産業がそれぞれ17.2%、2.7%減少した。
第2次産業の減少を第3次産業の集積でカバーした東京。自動車を核に、大阪の1.8倍近い規模の第2次産業を構築した愛知。第2次産業が大きく落ち込み、第3次産業も育たない大阪。この傾向は、決してこの10年で生まれたものではない。
大阪が工業生産(製造品出荷額等)の全国シェアでピークだったのは60年のころだ。県民総生産(実質)の全国シェアをみると、大阪府、近畿圏のピークは、大阪万博が開催された70年ごろ。万博が終わったころには産業構造は大きく変化し始めていたのである。
後講釈に過ぎないことを承知でいえば、人口や情報を求めて第3次産業が東京へ集中することは避けられなかった。大阪は、東京とも愛知とも異なる、自らの強みを活かした独自路線を模索すべきであった。現在、大阪に数少ない明るい話題を提供しているのは「パネルベイ」(シャープの堺工場を始めとした、大阪湾ベイエリアに集積したグリーン産業群)だが、なぜその誘致は07年まで待たねばならなかったのか。歴史をひも解くと、自地域の工業力を過信して規制色を強め、東京に張り合うことで時間と金を空費した大阪の姿が浮かび上がる。
大阪の産業構造の変化を、もっとも早く示唆した動きは、大阪企業による東京への本社機能移転だった。近年もその動きは強まりこそすれ、弱まることはない。
03年に大阪府立産業開発研究所(当時、現・大阪産業経済リサーチセンター)の主任研究員として調査を行い、現在、プール学院大学国際文化学部准教授の平井拓己氏は、「この問題は50年以上も前から起こっている古くて新しい問題であり、決して今に始まったことではない」と指摘する。
平井氏によれば、大阪企業の特徴は大阪に本社を置きつつ、東京都内などに別途本社や拠点を置く複数本社制を採用している企業が多く存在していることにある。「複数本社制という形での本社機能移転は、1960年代にすでに始まっていた」(平井氏)。
府研究所が80年に発行した「大阪の経済構造とその変貌」という資料によれば、複数本社制は65年時点で大阪本社の上場企業216社のうち3社に過ぎなかったが、78年には全316社のうち41社、とくに資本金100億円以上の巨大企業において46社中18社と約4割を占めるまでになっていたという。60~70年代にかけ複数本社制をとって東京に軸足を移し、90年代以降は東京に一本化するところも増えてきたというのが大阪企業の特徴である。
この背景には一体何があったのか。平井氏はこう解説する。