チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年6月5日

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城山英巳 (しろやま・ひでみ)

時事通信社外信部記者

1969年生まれ、慶應義塾大学文学部卒業後、時事通信社入社。社会部、外信部を経て2002年6月から07年10月まで中国総局(北京)特派員。 外信部を経て11年8月から2度目の北京特派員。11年、早稲田大学大学院修士課程修了。現地での中国取材は10年に及ぶ。16年5月に帰国し、現在外信部記者。近著に『中国 消し去られた記録〜北京特派員が見た大国の闇』(白水社)、著書に『中国臓器市場』(新潮社)、 『中国共産党「天皇工作」秘録』(文春新書、「第22回アジア・太平洋賞」特別賞受賞)、『中国人一億人電脳調査』(文春新書)がある。14年に戦後日中外交史スクープで13年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。

 「中国盲目人権活動家」陳光誠事件の核心とは何なのか――。

 それは、7年間に及ぶ山東省地元当局の迫害を受け続け、ついに故郷・東師古村を脱出した陳が、家族の安全を最優先して米国に出国するか、あるいは国内に残り、人権擁護活動を続けるのか、という問題だった。4月26日午後に北京の米国大使館に保護された陳の心情はその狭間で揺れ動き続けた。海外に行けば、自分の影響力が低下することは熟知していたが、最終的な渡米というのは、妻子と一緒に自由な生活を獲得するという一線を譲らなかった結果だった。

 人権問題重視を内外に訴えるため陳一家の安全をどう守るか、を最優先した米政府が水面下で中国政府との間で進めた外交交渉も陳の意向に大きく左右された。

「保護」を決定したクリントン長官

 4月26日、陳光誠を保護してほしいと連絡を受けた米大使館は、国務省に報告し、クリントン国務長官はその日のうちに「保護」を決定した。

 その後の米国務省高官の話によると、陳はこの際、米大使館での治療を要請。これに対し、米側は「視力障害と北京への移動中に負ったけがのため人道的見地から入館を認めた」という。後に「不正常な方法で館内に入れ、中国内政への干渉だ」(劉為民・外務省報道官)と批判する中国政府への配慮から、あくまで一時的滞在を強調したものだった。

 5月3日からは北京の釣魚台迎賓館で、米中戦略・経済対話が開催され、クリントンは北京入りする予定だった。【前篇】(奇跡の脱出劇の裏に何があったのか)で触れたが、4月19日夜に村を脱出した陳も、陳を救出した女性人権活動家・何培蓉も米中戦略対話の開催を知らなかった。陳は5月31日に渡航先のニューヨークで講演。脱出後、初めて長時間登場する公式の場となったが、陳は「私は世間と隔絶しており、戦略対話なんて知らなかった」と認めている。

米中戦略対話の中止を警告 険悪ムード漂う

 陳は米大使館に保護された時点で、渡米という選択肢を持っていなかった。ロック駐中国大使は後に「最初から陳氏は中国にとどまり、中国国内の人権状況を改善させ、中国国民の自由・民主拡大のために奮闘したいと望んでいた」と明らかにしている。

 一方、クリントンの外交官への指示は、戦略対話開幕までに陳光誠問題を解決させることだった。急きょ北京入りしたキャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)は29日から中国外務省で米国を担当する崔天凱次官との調整に入った。

 駐日大使も務めた崔は、柔軟な物腰の裏で断固として原則を譲らない中国外務省のエース外交官だ。米中交渉の内幕を描いた米ニューヨーク・タイムズ(5月9日)によれば、崔は、米国が外交の慣行を侵害したと批判し、戦略・経済対話の中止を警告したが、これに対して米国も交渉打ち切りを示唆するなど険悪なムードが漂った。

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