中国を代表する人権派弁護士の浦志強が7月初旬、日本を訪れた。来日の目的はプライベートなものだが、私の早稲田大学のゼミや日本のメディア関係者との内輪の研究会で話をしてくれた。今回はその内容を交えながら、彼の生き様や考え方、そして関わった裁判などを通じて見えてくる中国の今を紹介したい。
圧倒的な存在感
180cm以上の長身にがっちりした体格、角刈りで彫りの深い顔の浦志強が低く太い声で話すと、周囲に不思議な威圧感を与える。浦の使う言葉はウィットに富み、古典からとった表現も多いが、時に激しく人の心を突き刺すような皮肉が込められている。浦の監視を続けている公安の職員や法廷で対峙する裁判官でさえ、浦を前に緊張するというのに納得する。しかし、浦のまなざしはやわらかく、正義感に支えられた強い信念と情け深く愛情あふれる性格が滲み出ている。
浦は法律事務所の共同経営者の1人であり、ビジネス関連の訴訟も手がけているが、最近は社会的に影響のある案件、特に言論の自由に関わるものに費やす時間の方が長いようだ。浦は、名誉毀損で訴えられた『中国農民調査』の作家の陳桂捸と呉春桃(原告は本の主人公の1人の元安徽省阜陽市臨泉県党委員会書記・張西徳)(注1)や北京文学雑誌社の編集委員・肖夏林(原告はベストセラー『文化苦旅』で有名な作家の余秋雨)、収賄罪で服役した元『南方都市報』副編集長の喩華峰(注2)などの訴訟代理人を務めた。私のコラムで紹介した民営企業家・馮永明の裁判も担当している(『巨額汚職か、冤罪か 中国の家具王・馮永明の行く末は?』)。
また、後で詳述するが、最近では芸術家の艾未未の行政不服審査請求やミニブログに投稿した文面が原因で労働教養処分(注3)にされた方洪が処分取り消しを求めた争った行政訴訟も担当した。
注1:『中国農民調査』名誉毀損裁判の内容は、『発禁“中国農民調査”抹殺裁判』(朝日新聞出版社、2009年)に詳しく書かれている)。
注2:2004年、『南方都市報』副編集長の喩華峰、『南方日報』グループ研究員の李民英、『南方都市報』元副編集長で財務主管の鄧海燕が収賄罪で懲役刑の判決を受けた。しかし、SARSに関する報道などが当局の怒りを買い、濡れ衣を着せられたのではないかとの声が高まった。その影響なのか、二審で喩は懲役12年から8年に、李は懲役11年から6年に減刑、鄧は証拠不十分で釈放された。ほぼ同時に拘束されていた『南方都市報』元執行編集長の程益中も不起訴となり、5カ月の拘束を解かれた。2007年2月には李が減刑されて出所、喩は2008年2月に出所した。浦は喩の出所後に最高裁判所への上訴を支援したが、裁判所は受理しなかった。
注3:司法手続きを取らずに一定期間拘束され、強制的に労働に従事させられること。
迫害された育ての父
天安門事件の影響
河北省濼県の農村に生まれた浦は、おじに引き取って育てられた。新中国成立まで企業家だったこの育ての父は、折に触れて浦に如何に共産党に迫害されたかを話した。浦は頭がよく、県内トップ、省で100番以内の成績でエリート校の1つである南開大学歴史学部に入学した。大学では浦の優秀さに目をつけた教授が共産主義青年団への入団を勧めたが、大きなコストを払わなければならないことを覚悟で断ったという。育ての父の言葉が彼の頭から離れなかったのだろう。