「足はいくら疲れてもいいけど、前を見る判断力とハンドルを握る力だけは最後まで残しておいて。あとは私がカバーするから!」
障害者スポーツのパラサイクリングにはロード、トラックともにタンデム自転車(二人乗り)を使った競技が数種目あり、前席にはパイロットと呼ばれる健常者が乗り、後席にはストーカー(機関車の火夫の意)として視覚障害者が乗ってスピードを競い合う。それぞれの競技力に加えて、互いに助け合い、信頼し合ってこそ最大のパフォーマンスが発揮できる競技である。
2010年バンクーバー冬季パラリンピックに出場し、クロスカントリースキー日本代表として将来を嘱望されていた鹿沼由理恵の競技人生は、練習中の怪我により暗転。しかし、春を迎えた生命のように力強く、弾けるように怪我を乗り越え、パラサイクリング選手として生まれ変わった。
「国際大会に出たい」「表彰台に立ちたい」というあくなき渇望が、鹿沼を2016年リオデジャネイロ夏季パラリンピックへと駆り立てている。
両親から教えられた
「工夫すればできるでしょ!」
鹿沼にとってクロスカントリースキーとの出合いが全ての始まりだった。
鹿沼由理恵、東京生まれ。
「私は生まれつきの視覚障害でした。弱視で視力は0.04くらい。自分が障害を持っているという意識はありません。あまり不自由に思ったこともありません。ただ遠足に行ったときに道が凸凹しているのが嫌いだったくらいです(笑)。4歳年上の兄がいるのですが、その兄とも差をつけずに育てられました。逆に両親からは『なんでできないの? 工夫すればできるでしょ!』と教えられました」
小さいころから運動が好きで、鉄棒や縄跳び、特に走ることが得意だった。自宅から学校までは徒歩約30分。目が不自由どころか、その道を当時流行っていた一輪車に乗って、学校近くの友達の家に置かせてもらって通ったこともあった。