30年に米陸軍は再び参謀本部内にウィリアム・フリードマンを長とする通信情報部(SIS)を設置、これに倣って海軍も作戦本部内に第20部G課(OPー20ーG)を新設して通信傍受と暗号解読活動を再開している。その後、欧州で第二次世界大戦が勃発し、太平洋では日本の脅威が高まるにつれて、陸海軍の間で通信傍受の協力関係が真剣に模索されるようになる。
40年中頃、陸海軍の間で、陸海軍の役割分担について話し合われることとなった。この時、陸軍が外国の陸軍の通信を、海軍が外国の海軍の通信を傍受することについては問題なかったが、外交通信をどのように担当するかについては議論が紛糾した。当時、陸海軍にとって通信傍受の優先ターゲットは、日本、ドイツ、イタリア、メキシコ、ソ連などであり、この分野に関しては陸海軍がそれぞれ通信傍受と暗号解読を行っていた。
日本の外交暗号に関しては、40年8月になって陸海軍の間で「奇数・偶数日協定」が取り決められている。これは陸軍が奇数日に、海軍が偶数日に日本の外交暗号を傍受・解読するというものであった。この方式は、陸海軍が同時に機密事項を解読した場合、双方がホワイトハウスに駆け込んで混乱することを避ける政治的な配慮から生じたものであるが、むしろそれがあまりにも杓子定規的かつ非効率的だったため、後によく知られるようになった。
40年10月、米陸軍通信情報部のフリードマンを中心とする暗号解読チームは、日本外務省のパープル(紫)暗号の解読に成功した。同暗号は日本外務省が39年に導入した最新の機械式暗号で、97式欧文印字機という暗号機によって組まれていた。この暗号はかなり複雑なもので、その解読にはかなりの時間と労力が投入されているが、最後は頻度解析という統計的な処理によって理論的に解読されている。
日本は教訓を生かせず
太平洋戦争へ
そしてフリードマンらは、40年8月頃には日本外務省が使用していた97式欧文印字機まで模造するに至った。暗号機を復元することができれば、暗号解読の手間も劇的に短縮される。彼らはさらに2台目の暗号機を復元し、それを海軍の暗号解読チームに提供したのである。これで陸海軍は取り決めに従って、交互に日本の外交暗号を解読することが可能となった。
41年4月から、日米間では戦争を回避するための日米交渉が開始されており、その過程で米国の暗号解読情報は威力を発揮することになる。約8カ月間の交渉で東京ーワシントンを往復した日米交渉関係電報227通のうち、223通が米国に傍受・解読された。解読された外交暗号は米政府内で「マジック」と呼ばれ、米国の対日政策に大きな影響を与えていたのである。米国側の責任者であったコーデル・ハル国務長官は、「マジックは日米交渉の序盤ではあまり役に立たなかったが、最終局面では重大な役割を果たした」と評価している。
ヤードレーの著作から教訓を得ていたにもかかわらず、日本は再び外交暗号を解読され、それに気づかないまま太平洋戦争に突入することになった。