第一次世界大戦後の1920年代、米国の暗号解読組織は、英国が既にやっていたように、日本の外交暗号を解読し始めていた。この組織はハーバート・ヤードレーという国務省の暗号解読官を中心としており、通称「アメリカン・ブラックチェンバー(黒い部屋)」と呼ばれていた。ブラックチェンバーは政府から切り離された民間の組織であったが、国務省と陸軍省の機密費で成り立っていた。
そして21年11月に日本、米国、英国、フランス、イタリアの代表団が参加する海軍軍縮会議がワシントンで開催されると、ブラックチェンバーは各国の外交暗号を解読し始め、その数は合計で5000通を超えることになる。ワシントン会議で最大の懸案となったのは日本と米国の戦艦の比率であり、米国は日本の戦艦総トン数を対米6割と主張、米国に少しでも追いつきたい日本は対米7割を主張し、お互いの議論は平行線をたどり始めていた。
11月28日、日米の意見対立で会議が頓挫することを恐れた内田康哉外相は、ワシントンに妥協案を送っている。その内容は、まず6割5分で米側の出方を探り、それでも駄目なら6割もやむなし、というものであったが、ブラックチェンバーはこの電報を傍受し、解読することで貴重な情報を入手したのである。この暗号解読情報によって日本政府の譲歩ラインが対米6割であることが明らかになると、日本の対米7割という主張は何の説得力も持たなくなり、米国代表団は強気の姿勢で対日交渉に臨むようになる。そして12月10日、内田外相は「大局に鑑み、協調の精神をもって米国提議の比率を受諾するほか、他にとるべき途なし」と米側に妥協するよう指示し、日本側は対米6割で妥協することになったのである。他方、会議におけるブラックチェンバーの貢献を高く評価したジョン・ウィークス米陸軍長官は、その後、ヤードレーに殊勲賞まで与えている。
ヤードレーの失職と
「通信情報部」の新設
しかしブラックチェンバーは安泰ではなかった。29年3月にヘンリー・スティムソンが新たな国務長官として国務省に赴任してきた際、予算増額をもくろんだヤードレーは自信満々にブラックチェンバーの活動をアピールするも、誠実さを売りにしていたスティムソンは逆に怒りだし、後世に残る言葉を残したのである。
「紳士たるもの、みだりに他人の信書を盗み読みするものではない」
こうしてブラックチェンバーは解体されることになり、ヤードレーも職を失うことになる。当時は世界大恐慌の真っ只中で、その日の暮らしもままならなくなったヤードレーは、政府に対する不満を吐露する目的も重ねて、ブラックチェンバーの内実を書籍として出版したのである。それが『アメリカン・ブラックチェンバー』というタイトルで販売されると、その衝撃の内容から、米国のみならず世界中でベストセラーを記録することになる。特によく売れたのが日本で、米国での倍近く、3万3000部が売れたという。この暴露本に最も衝撃を受けたのが日本陸海軍や外務省の暗号担当者たちであったはずだが、その後も同じ過ちを繰り返すことになる。