1997年に米中央情報庁(CIA)は、米国の「インテリジェンスの父」として、3人─ジョージ・ワシントン、ジョン・ジェイ、ベンジャミン・フランクリン─の名前を挙げている。いずれも米国の建国に貢献した偉大な政治家だ。しかし、崇高な理念だけでは国家は建設できず、そこには国家間の権力闘争やインテリジェンス活動など、裏の活動が必要不可欠であった。
現実主義に徹した米国の初代大統領
ワシントンは20代の頃、英国植民地政府のスパイとして、オハイオ駐留の仏軍の動向を探るべく派遣されたことが、インテリジェンスの世界に足を踏み入れるきっかけとなった。
そして彼が米国独立戦争で総司令官となると、軍事費の10%を情報にあて、敵の動静を掴むための情報網を構築したのである。現在、欧米諸国は国防費のおおよそ5〜10%をインテリジェンスに割いているので、ワシントンの予算配分はかなり適切なものであった。
ワシントンは米軍で初となる情報部も創設した。これは「ノールトン・レンジャーズ」として知られている偵察部隊で、ここに所属していたのがネイサン・ヘイルという21歳の大尉であった。
ヘイルは英軍占領下のニューヨークで活動していたが、最後は英軍に捕まり、スパイとして処刑されている。彼はスパイとして大きな功績を残したわけではないが、「私はこの国のために失う命が一つしかないことを悔やむだけだ」と言い残して処刑されたことで歴史に名を刻んだのである。
彼の言葉は軍人やインテリジェンス・オフィサーに求められる倫理に昇華され、その後、CIAをはじめとする公的機関にヘイルの銅像や肖像画が置かれるようになったのである。
ヘイルの活動は英軍に妨害されたものの、ワシントンのスパイ網は英軍内に着々と築かれていた。1780年7月、「レディ」と呼ばれたあるスパイが英軍の極秘計画をもたらしている。
これはロードアイランドに到着するフランスからの援軍(当時、米仏は同盟国)を、ニューヨーク駐屯の英軍によって迎撃するという内容であった。この情報を得たワシントンは、即座に米軍がニューヨークに侵攻するという噂を流し、さらに現実味を加えるため、彼の部隊をニューヨーク郊外まで行進させた。この噂を信じた英軍は策略にはまり、ニューヨークの部隊をロードアイランドへ移動させることができなかったのである。
ワシントンは初代米国大統領就任後も、インテリジェンスを重視した稀有な政治家であった。彼は国家予算の12%を機密費にあてているが、決して議会に対してその詳細を説明することはなかった。
この慣習は現在にも受け継がれているが、ワシントンの後継者たちはその情報運用については学ばなかったようである。
ワシントンといえば、父が大事に育てていた桜の木を斧で切ってしまったことを自ら打ち明けて称賛されたエピソードが有名なように、正直な人物であるというイメージが強い。
しかし、このエピソードは後世の創作であり、真実のワシントンはインテリジェンスに秀でた現実主義的な人物であったのである。