ジャーナリズムの報道姿勢の中には、様々な種類がある。定期的に公表される政府統計や企業業績など、ファクトを整理して伝えるのが一番手堅い1次報道だ。これに対して、ファクトを押さえた上で、将来見通しを加えたり、善悪など価値評価を行う論評を交えた2次報道、さらに複数の見解によりお互いの論争に発展する3次報道もある。
これとは別に、著名人の仮面を剥ぐスキャンダリズム、事実を誇大に表現するセンセーショナリズムといった、やや次元の低いアプローチもある。それとは別に、過度な表現で一部の読者には刺激を、そして多くの読者には不快感を与えるエログロ報道などもある。
人類の長い歴史において、表現の自由が必ずしも保証されていない時代も含めて、ジャーナリズムというのは、こうしたカテゴリーの中で展開されてきた。日本の歴史を辿るのであれば、昭和前期の放送の黎明期、明治期の新聞が発達した時代などもそうであったし、江戸時代以前まで遡って瓦版や落書などの文化を考えても同じだ。

そんな中で、報道、あるいはジャーナリズムというのは、多かれ少なかれ価値評価を意識して行われる活動である。今は少なくなったが、小学生の学校新聞で、「飼っていたウサギが赤ちゃんを産みました」というような事件が報じられることが昔はあった。これは一見すると中立的なファクトの伝達に見えるが、実は多産や繁殖は善という価値観が暗黙の前提になっていたりする。
現在のアメリカは、トランプ派とリベラル派に価値観が真っ二つに分断されている。価値観が正反対であるので、ファクトの捉え方も正反対であり、自陣営に都合の良いように報じる際にはファクトが歪められることも多い。けれども、問題は程度の話である。価値観のバイアスが強過ぎるのが問題で、弊害はご覧の通りであるが、価値評価が消えているわけでは全くない。
その一方で、近年の日本で強まっているのは、価値評価を著しく弱めた報道姿勢である。センセーショナルなど、ファクトを歪曲するという態度とは、これは全く次元の異なる問題であると考える。
顕著な例は、フジテレビをめぐる一連の報道だ。報道が過熱する中で、どうして中居正広氏やフジテレビに批判が集まったのかというと、どう考えても女性アナウンサーを性的な対象としか見ていない間違った価値観が見えたからだ。だからこそ、世論は真相究明に関心を寄せたし、被害者に同情し、加害者により批判的となった。
そこまでは、どの国でも、あるいはどの時代にも起き得ることだ。けれども、1月28日になって、報道を先導していた週刊文春が、事件における「フジテレビ社員の関与の度合い」について訂正記事を出すと、風向きが変わった。以降は同じような人々が、今度は「週刊文春は廃刊すべき」などと騒ぎ出し、フジテレビの責任はかえって曖昧になる中で、事件への関心も薄れつつある。