政策軸がなくなり、勝ち負けだけの政治に
この問題は、コロナ禍の前後から顕著になってきている。けれども昨年からは、実際に選挙にも影響を与えるようになった。つまり、現状不満票が思わぬ形で選挙を左右する現象につながっているのだ。例えば、あえてひと括りで言えば、石丸伸二氏、斎藤元彦氏、あるいは立花孝志氏などに寄せられる支持には、具体的な政策の軸はほとんどない。
同じ現状不満票ということであれば、日本維新の会や都民ファーストの会などの場合は、都市型の納税者の反乱というセンチメントを取り込んできている。従って、振れ幅はあるにしても、基本的には小さな政府論が原点と言える。
維新の場合は経済成長の実績を見せようと万博を主導したし、小池都知事の場合は五輪招致に乗ったり交付金行政への傾斜を混ぜてきてはいる。けれども、それでも彼らの場合は「納税者の反乱」イコール「小さな政府論」という軸はまだ残っているようだ。
けれども、石丸、斎藤、立花といった人々と、その支持者には、そうした軸すら良くは見えない。現状の既得権益を崩すという言動はある。けれども、それが小さな政府論や民間活力の優先という価値観に支えられているようには見えない。高齢者の主導する秩序に挑戦するムードはある。けれども、限りある国富の配分をめぐって世代間闘争を戦い抜くような一貫性は見えない。
とにかく、政治やジャーナリズムは勝ち負けの世界であり、そこには価値判断のパターンを揃える思想的一貫性など不要だし、そもそも世論は思想だとか一貫性などには関心はないという、一種の悲観主義すら感じる。その奥には、経済衰退と人口減少は止めようがなく、それ以前に効果的な政策を提案したとて、合意形成は不可能という感覚も見え隠れする。こうなると、究極の虚無主義と言ってもいいだろう。
「トランプのアメリカ」よりも劣化する日本世論
そう考えると、いくら分断を招き、国富を自損しているとはいえ、トランプ流の政治には、リベラリズムやグローバリズムの陰画としての「思想的な一貫性」はある。今は、嵐のような「最初の100日」が経過中だが、やがて激しい賛否両論の時期が来れば、噛み合わないなりに論争は可能だろう。
けれども、現在の日本で進行中の「ふわっとした民意」を味方にする「勝ち負けのゲーム」というのはトランプ現象とは次元が異なる。場合によっては「被害者の正義」に便乗する、あるいは何でもいいから「規制の権威は貶めれば新鮮な気持ちがする」という「勝ち負けだけのジャーナリズム」「勝ち負けだけの政治運動」というわけであり、遥かにタチが悪い。
この動きに対抗するのは難しい。ビューを稼ぐという、ささやかなマネーゲームこそ「リアル」だという思い込みは、ある世代以下には強い。これを打ち砕き、効果的な政策を争い、実施して社会改良を実現することこそ「リアル」だという説得は、そのような理念だけでは通用しない。
そうではなくて、必要な改革を行うことで、先進国水準の経済を維持し、現在の生活水準を維持する道筋はあるということを、具体的に訴えて行くことが重要だ。つまり現実を直視して現実的な方法論を提案し、複数案を用意して討議するのだ。
その結果として有意義な議論が可能であり、実現可能で効果のある政策への合意形成もできることを証明してゆかねばならない。私たち、ジャーナリズムに関与する者の責任が今ほど問われる時代はないのだと思う。
