2026年2月20日(金)

酷似する 「戦間期」と現代

2026年2月20日

 拓け満蒙! 行け満洲へ!

 満州農業移民を募集するこのポスター画像を目にした時、私は強烈な違和感を覚えた。

満州への移民を募集するポスター(大原千和喜所蔵)。国策はどういう経緯で生まれ、どう変質していったのか 写真を拡大

 日本が「大陸国家」になることを夢見ていると感じたからである。

 日本は四方を海に囲まれた島国であり、歴とした「海洋国家」だ。

 大陸からの文物や技術は海からもたらされ、海によって平和が守られてきた。そして、海の向こうに広がる大陸からの脅威にいかに備えるかが、有史以来、日本の安全保障の根幹であり、立国の基本であった。

 やがて、19世紀の帝国主義の時代、西欧列強がアジアを次々と植民地化し、日本の存立に危機感を覚えた武士たちは明治維新を成し遂げ、近代国家への転換を果たした。日本はその後、陸軍・海軍を持ち、大陸国家である清帝国やロシア帝国の脅威に向き合い、多くの犠牲を払いながらも勝利を収めた。

 「古人曰く勝って兜の緒を締めよと」

 連合艦隊司令長官・東郷平八郎は「聯合艦隊解散之辞」でこう締めくくったが、勝利に浮かれた日本は、立国の基本を忘れ、その後、アジア主義に傾倒してゆく。

 満蒙は日本の生命線──。

 この言葉は、のちの外相を務めた松岡洋右が1931(昭和6)年1月の議会で述べたものだが、国際社会からは到底、理解を得られるものではなかった。

 だが、関東軍は、この松岡発言を追認するかのように行動した。同年9月18日、南満州鉄道(満鉄)の奉天(現・瀋陽)近郊の柳条湖で線路を自作自演で爆破し、満州事変の発端となる「柳条湖事件」を引き起こしたのだ。首謀者は関東軍高級参謀・板垣征四郎と、同参謀・石原莞爾らであった。

 やがて日本はほぼ満州全域を占領し、32年3月1日、「五族協和」「王道楽土」をスローガンに掲げた「満州国」が建国される。

 この頃の日本は、世界恐慌や昭和恐慌の影響で、国民生活は窮乏のどん底にあった。特に農村の二男・三男は耕す土地さえ満足になかった。

 31年には東北地方が深刻な冷害に襲われ、農村経済は壊滅的打撃を受ける。娘を身売りする家も相次ぐなど、日本には、一刻も早い「打開策」「救済策」が必要であった。

 詳細は後述するが、満州事変勃発の翌年、試験段階ではあったが、政府は満州移民の実施を決定した。

 蔵相などを務めた高橋是清は満州移民拡大に反対していたが、36年「二・二六事件」で暗殺される。関東軍が立案していた計画をもとに同年8月、広田弘毅内閣によって「満州農業移民二十ヶ年百万戸移住計画」が正式に〝国策〟として決定され、終戦までに日本全国から約27万人が開拓団として満州に渡り、そのうち、約8万人が命を落とした。

 悲劇はなぜ起きたのか、満蒙開拓とはいったい何だったのか、多くの人々はなぜあのような国策に絡めとられていったのか……。小誌で扱うには、あまりに広範で重く、まして安易に答えを導き出せるものではない。そうした思いもあって、私自身、満蒙開拓の歴史は机上の知識だけにとどまり、踏み込むことを長らく躊躇ってきたテーマであった。

 しかし、時代の空気が「戦間期」に酷似しつつある中、いまこそ歴史に学ばねばならない。加えて、満州からの引揚者の多くが鬼籍に入りつつある今、当時を知る人々の証言を聞き取り、記録として後世に伝えることは、もはや猶予の許されない喫緊の課題となっている。

 歴史とは、点と点を接続してこそ意義があり、それを伝えることがメディアの使命である─。こうした思いを胸に、岐阜、長野、群馬の3県へと赴き、当時を知る人々の証言に向き合うことから取材を始めた。


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