2026年2月20日(金)

酷似する 「戦間期」と現代

2026年2月20日

 日本への帰国が決まり、佳木斯で、母親と別れるという出来事もあったが、兄とともに46年10月30日、飯田に戻った。7歳で渡満した栄美さんは12歳になっていた。

 帰国後も様々な苦労があったが、母親とも再会を果たした。

 栄美さんは2025年3月、『私の歩いた道 北村栄美自伝』を出版した。きっかけは、栄美さんが「語り手、の、たどった『旧、満州国』の六年」と題した14頁にわたる原稿を、70歳を過ぎてからワープロを使い、生まれて初めてキーボードに向かって人差し指一本で打って仕上げたことだ。それをもとに息子の彰夫さん(65歳)が家庭内インタビューを試み、本にまとめ上げた。彰夫さんは「コンセプトは北村家の食卓。母が直接語りかけるスタイルにしてみました」と笑う。ただ、著書の緒言にもあるように、彰夫さんは栄美さんの原稿の最後にこう記されていたことが忘れられないという。

 「日本軍指導部の『国策』によって、財産も家族も奪われて、捨てられて人生を翻弄された移民や家族の悲しみに『終戦』はない」

大鹿村から満州に旅立った開拓団の慰霊碑

戦後開拓に尽力
妻にも話せなかった過去

 JR飯田駅から車を走らせること約30分。長野県下伊那郡松川町増野地区は果樹栽培が盛んな農業地域で、多くのリンゴ畑が点在している。それらの多くは、満州からの引揚者らの尽力によって戦後開拓されたものである。

 県南部に位置する飯田・下伊那地域は、満州への開拓移民が8300人以上と、県内でも突出している。

 実は、全国の中で開拓団の送り出し数が突出して多かったのが長野県であった。その数は、約3万3000人に上り、2位の山形県と約2万人の差があった。

 なぜ、長野県が全国最多だったのか。背景には、盛んだった養蚕業が世界恐慌で大打撃を受け、繭価が暴落し、経済的苦境にあえいでいたことなどが関係している。

 海外移民事業にも積極的であった。満州移民はある時期から地域単位で渡満する「分村・分郷」移民も行われるが、村ぐるみの「分村移民」を行ったのが、南佐久郡大日向村(現・佐久穂町)で、全国のモデル地域としても注目を集めたという。

 「子どもの頃の生活は、今思っても、本当に苦しかったですね」

 こう話すのは、長野県下伊那郡松川町在住の仲田武司さん(91歳)。仲田さんは34年7月、下伊那郡喬木村に生まれた。

仲田武司さん。当時の写真や地図で現地の様子を教えてくれた

 厳しかった生活を変えようと、仲田さんが6歳になった40年、両親らとともに一家6人で渡満し、大日向開拓団の隣に位置する水曲柳開拓団へ入植した。仲田さんは41年から「水曲柳在満国民学校」に入学。一家が暮らしていた東房身崗集落から学校は約15キロ・メートル離れていたこともあり、1年生より寄宿舎生活を始め、授業が終わる土曜日の午後に列車で帰り、日曜日の午後、再び寄宿舎に戻る生活を送っていた。

 「天気のいい暖かい日には、線路沿いを歩いて家に帰ってましたね」と仲田さんは当時を懐かしむ。

 喬木村の生活に比べて、水曲柳開拓団での生活は豊かだった。

 「小麦や大豆、とうもろこし、葉たばこなどを収穫し、父は『1年の収穫で3年は暮らせる収入があった」と語っていました。その一方で、侵略によって土地を奪ったという負い目を常に抱え、現地の人々への申し訳なさが消えることはないとも言っていました。だからこそ収穫祭のたびに、農作業を手伝ってくれた現地の人々を招き、ごちそうでもてなしていました」

 しかし、そんな生活もソ連侵攻と日本の敗戦で一変した。のちに父親から聞いて分かったことがある。

 8月末、青酸カリで集団自決をしようと集落を出たところで、父親が懇意にしていた中国人から「死んではだめだ」と自決を思いとどまらせてくれたことだ。結果として、仲田さんは助かったが、別の集落の同級生3人は自決した。

 翌9月、仲田さん一家は、水曲柳を出て、哈爾濱経由で新京(現・長春)へ向かい、避難民収容所で共同生活をしながら越冬。幸い、対象年齢を過ぎていた父親は「根こそぎ動員」を免れ、「みんなを日本に連れて帰る」と鼓舞してくれたという。

 そして、46年7月。葫蘆島から引き揚げ、家族7人全員が無事帰国を果たした。しかし、帰国後の生活は苦しく、47年7月、仲田さん一家は、今度は戦後開拓で、旧・山吹村増野原開拓地(現・松川町大島)に入植した。父親を助け、農業に従事し、果樹栽培を始めた。

増野開拓記念碑

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