満蒙開拓を推進した
東宮鐵男とはどんな人物か?
ここまで向き合ってきたものは、開拓団の人々を中心とした証言である。では、満蒙開拓そのものを構想し、推し進めた人々はどのような思いを持っていたのだろうか。
先述の通り、満州移民は36年以降、〝国策〟となった。その国策は、様々な史実や満州移民の体験者の証言などを冷静に検証すれば、誤ったものであったといえるだろう。
だが、誤解を恐れず踏み込んで言えば、国策となる前後の満蒙開拓の歴史を一緒くたにすること、あるいは戦後形成された歴史観だけで結論づけることには慎重であるべきという点にも触れておきたい。
満蒙開拓は国策となって以降、明らかに変質し、当初の理想から大きく乖離していった面があるからだ。
紙幅の都合上、その経緯は、元日本経済新聞社副社長でジャーナリストの牧久著『満蒙開拓、夢はるかなり 加藤完治と東宮鐵男』(小社刊)に譲るが、苦境にあえぐ農民を救済し、生命の源である「食」「農業」をどう守り、どう育てるかは、当時の日本にとって大きな課題であった。そうした中、広大な〝未開墾〟の原野が広がっていたソ連と国境を接する満州北部に「農業を生きがい」とする日本の若者を送り込み、豊かな農業地帯に変え、石原莞爾らの描く「五族協和」「王道楽土」に共鳴し、理想の国づくりを推進しようとしたのが、軍人・東宮鐵男と農本主義教育者・加藤完治だった──。
こうした満蒙開拓で埋もれた歴史を掘り起こそうと14年11月に「群馬満蒙開拓歴史研究会」を立ち上げたのが、東宮春生さん(72歳)だ。「満州移民の父」と呼ばれた元陸軍大佐の東宮鐵男は、春生さんの祖母の弟で、大叔父にあたる。春生さんに会うべく、1月下旬、浅草駅から東武桐生線の終点・赤城駅に向かった。
春生さんは「軍人としての東宮鐵男を賛美するつもりはない」としつつも、鐵男の生家や墓を巡りながら、様々な思いを語ってくれた。
「石原莞爾の名は広く知られていますが、東宮鐵男を知る人は多くありません。東宮は戦後、1928年の張作霖爆殺事件で爆弾のスイッチを押したことが明らかになり、中国侵略の口火を切った人物として厳しい批判を受けました。彼はどのような人物で、何を考え、どう行動したのか──。しかし、そんな問いを口にしても、戦後の日本社会では耳を傾けてもらえる機会はほとんどありませんでした。実際、東宮家では鐵男について語ること自体〝タブー〟とされてきましたから。
それでも、時代が移り、歴史をより冷静に見つめ直すことができるようになった今だからこそ、改めて満蒙開拓の歴史を多角的に検証すべき時期が来ている。そう考え、研究会を立ち上げました」
試験段階の満州移民については、32年秋から始まった第一次移民は「弥栄村」を、第二次移民は「千振村」を建設した。
東宮は、日本人が入植可能な未墾地を探して受け入れ態勢をつくる先頭に立った。加藤は、「農業は善であると確信し、曠野の開墾を生きがいとする若者を養成して送り出す」ことに尽力し、満州開拓移民は本格的にスタートする。
ジャーナリストの牧久さん(84歳)はこう解説する。
「石原、東宮、加藤の3人が約束したことは、①満州北部の未墾地を選ぶこと、②所有地のある土地は適正な値段で買い上げること、③入植者は、功利主義的な人物ではなく、純粋に『農業は善なり』を信条とする農民に限るということでした」
匪賊の襲撃や脱落者など、開墾には様々な苦労があったが、極寒の北満への入植は不可能とする世論も風向きが変わり、「満州移民推進論」はやがて、国策となってゆく。
だが、この頃から東条英機や松岡洋右らの影響により、石原や東宮が当初描いた満州国や満蒙開拓の理想は変質し始める。春生さんは言う。
