「当初開拓は未墾地に限るとしていましたが、先住民の既墾地に広がり、強制買い上げや収奪などに変化していきました。石原や東宮は、これに断固抗議しています。その結果、石原は左遷され、東宮も満州を追われるように帰国しました。もはや、この頃から満州国に彼らの居場所はなくなっていたといえるでしょう」
その後、石原が戦線不拡大方針を主張した日中戦争は上海に飛び火し、東宮は前線部隊の大隊長として出征を命じられ、37年11月、壮絶な最期を遂げる。それは「当時の関東軍に対する〝抗議の自死〟だったのではないか」と春生さんは分析する。
14年に始めた研究会は昨年10月、150回を迎え、現在も継続中だ。これまでに延べ4200人以上が参加し、今もなお、様々なネットワークが広がっている。「新しいつながり、新しい歴史を発掘する場として、これからもこの研究会を発展させていきたい」と春生さんは意気込む。
「昭和の軍人=悪人」で語られがちだが、春生さんを突き動かしているのは、東宮鐵男という人物の実像を解明したい、知ってもらいたいという強い思いなのだろう。
歴史を残すのも
時代をつくるのも人
再び、引揚者の栄美さんのことに話に戻そう。栄美さんは取材中、「大勢の人に話を聞いてもらうのもいいんですが、私は、全部を受け止めてくれる人に話したいし、そういう人に会いたいんです!」と表情を引き締め、力強く語る場面があった。私には、その瞬間が忘れられない。
この思いは仲田さんにも共通しているはずだ。そして何より印象的だったのは、あれほど恐ろしい体験をした2人が、そろって「満州は好きだった」と口にしたことだ。2人の胸に去来していたものは何だったのか。それは、恐怖だけでは語り尽くせない、大自然が広がる満州への愛着、そこで出会った人々への思い、そして自分が生きて帰ることができた、あるいは「満州に生かされた」という思いがあるのかもしれない。
フィリピンで終戦を迎え、捕虜になった評論家の山本七平は『日本人の人生観』(講談社学術文庫)の中で、終戦後に教科書を墨で塗ったことについて、「歴史というものはそれを絶対にしてはならない」として、こう述べている。
「あるものをそのままにしておく。そのあとに、ただしこの点はここがまちがっていると、そういう注釈を書いていくことがじつは人間が過去を正確に知る方法であります」
「六十年後、百年後と次々に注釈をつづけて行く。こうやっていきますと、人間というのははじめて自分の過去というものを正確につかむことができまして、同時にこれの延長線上に自分の未来を予測することができるわけです」
埋もれた歴史を掘り起こし、様々な証言を多角的に検証すること、これこそが重要なのだろう。山本七平の慧眼を忘れてはならない。
また、歴史を見つめ直す時、しばしば思い起こされるのが「人は時代の申し子」という言葉である。だとすれば、時代もまた人の申し子なのではないか。歴史を残し、時代をつくるのは、ほかならぬ人間だからである。なぜ誤った国策が生まれ、なぜあの戦争に突き進んだのか─。これらを解明し、教訓として次世代に引き継いでいくことは、私たちの責務であり、その営みを真摯に続けていくことこそ、戦争や満蒙開拓で犠牲となった人々への鎮魂の一助となりうるのではないか。
