2026年2月20日(金)

酷似する 「戦間期」と現代

2026年2月20日

子どもを殺める親……
殺されるかもしれない恐怖

 「満州は日本が侵略した地であり、私自身もその一端を担った〝小さな侵略者〟でした。いま、世界は再びあの時代を思わせる不穏な空気に包まれています。人間は、また同じ過ちを繰り返すのでしょうか」

北村彰夫さん(左)と栄美さん(右)。取材中、親子の会話は絶えず、強い絆を感じた(WEDGE以下同)

 こう話すのは、岐阜県揖斐郡池田町在住の北村栄美さん(91歳)である。栄美さんは34年3月、長野県下伊那郡大鹿村に生まれた。国民学校2年生になった41年春、母親が突然、こう切り出した。

 「満州に行くことになった」

 渡満するには理由があった。嵐などの影響で2年続けて田んぼを耕せなくなり、もはや家計は成り立たなくなっていたからだ。そして、一家6人で、渡満する。国鉄・飯田線を北上し、新潟から朝鮮半島、哈爾濱を経て、松花江を遡上し、清河鎮という港町に上陸。栄美さん一家は大古洞開拓団に入植した。

 満蒙開拓団の応募にあたり、「満州へ行けば兵役がない」と言われていたが、現実は違った。44年頃になると、開拓団が現地召集されるようになっていた。栄美さんの父親も召集され、のちにシベリアへ抑留され、帰国の途上で命を落としている。

 そして45年8月9日。ソ連軍は日ソ中立条約を破棄し、満州へ侵攻し、悲劇が始まる。開拓団は満州の大地を彷徨う〝棄民〟になった。

 栄美さんは言う。

 「日本は神の国だから戦争には負けない。私たちはそう教えられ、そう信じてきました。私たちはもう、すべての気力を失いかけていました」

 日本の敗戦が大古洞開拓団に伝えられたのは8月17日のこと。18日には、開拓団に残った幹部が話し合い、「最後の一人まで戦って死ぬ」という方針が決められた。

 「隣の小古洞開拓団は老人と子どもを集めて家に閉じ込め火を放ち、残った人たちは、後で中国人が使えないように井戸に毒を入れ、互いに撃ち合って死ぬということになっていた。この事実は、後日、死にきれなかった人たちが大古洞にたどり着き、判明しました」と栄美さんは言い、衝撃的な事実を話してくれた。

 「逃げてきた多くは老人と子どもを殺してきたという若い女性たちでした。炎に包まれた家から『母ちゃん、堪忍して、熱いよぉ、熱いよぉ』という叫び声がしたということを聞き、悲惨な光景が目に浮かびました」

 その秋、妹の千裕さんが百日咳で重態になり、満州で生まれて1歳にも満たない洋子さんも風邪を引いた。頼みのアスピリンも少なくなっており、母親は「洋子は小さいから、どっちみち死ぬ子だ。チコはここまで育ててきた子だ。一人だけでも助けたい……」と言った。

 忘れられないことがある。お腹をすかせ、苦しくて泣く洋子さんに一さじのお粥を与えた時のことだ。

 「真っ白になった洋子のほっぺが薄紅色に染まって笑い、浮かび上がった血管に血が流れる様子がはっきりとわかったんです。この子には生きる力がある、そう感じました」

 洋子さんはその後、ほどなくして亡くなった。悲しみはそれだけではなかった。今度は弟の文明さんが栄養失調になった。「母と兄はもう誰も死なせたくない、死なせるよりは……」と、中国人に預けることを決断。文明さんと離れ離れになった。

 帰国後、現地に残っていた人から届いた手紙に文明さんは「『自分は日本人ではない』と言い張り、日本人同士の集まりにも顔を出さなかった」ことが記されていたという。

 その後、文明さんは農作業中の事故で亡くなったという知らせを受ける。享年44だった。

 逃避行の中、意外なこともあった。

 「没法子、つまり、中国人の多くは日本人に抵抗したら殺されると思っていました。それが日本の敗戦を機に、立場が逆転したんです。私たちはいつ殺されるか分からない恐怖を感じていました。しかし、中国人は殺さなかった。中国人の上に立つ人の中には、『日本人たちは悪くない。俺たちと同じ日本軍の被害者だ』ということを周りの中国人たちに一生懸命話してくれる人もいました」


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