これまでは各国のインテリジェンス組織について概観してきた。今号からは古今東西のインテリジェンスの歴史について論じていきたい。
スパイによる情報活動は相当古くから行われており、スパイは人類で最古の職業の一つに数えられることもある。これは人類が社会生活を営み、互いの集団の間で争いが生じたことで、スパイ活動が必要になったものと考えられる。最古の記録については、古代エジプトやメソポタミアのものが残っており、旧約聖書でもモーセがカナーンの地に12人のスパイを派遣して調査を行ったという逸話が残っている。
古代中国でもスパイを「間」と呼んでいたが、これはスパイが二つ折りにされた封書を覗く行為に由来しており、日本でも「間諜」という言葉が定着することになった。この分野で先見性を発揮したのは中国の孫子であり、その兵法である「用間篇」では次のように記されている。
「聡明な君主やすぐれた将軍が行動を起こして敵に勝ち、人なみはずれた成功を収める理由は、あらかじめ敵情を知ることによってである。あらかじめ知ることは、鬼神のおかげで──祈ったり占ったりする神秘的な方法で──できるのではなく、過去の出来事によって類推できるものでもなく、自然界の規律によって試し図れるのでもない。必ず人─特別な間諜─に頼ってこそ敵の状況が知れるのである」
孫子の生きた時代では、占いによって情勢判断を行うことが通例であったため、人間の手による間諜の重要性を説いたことは特筆に値する。孫子の書物は、飛鳥時代には日本にももたらされており、その後長らく日本のインテリジェンスの基礎となった。
古代から存在した
熾烈な「情報戦」
孫子の兵法が成立した前後の紀元前480年8月、ペルシアのクセルクセス王は、彼の父がついに成し得なかったギリシャへの侵攻を開始した。そしてその途中、要衝であるテルモピュライ峠において、ギリシャ軍の様子を探るために斥候を派遣したのである。
この時、斥候の報告は、「運動のため裸になっている兵もいれば、髪をといている兵もいた」というものであった。これに戸惑ったクセルクセスは捕虜のスパルタ人に報告の内容を吟味させるが、その答えは「スパルタ人は死地に赴く際には髪を整える」というものであり、言い換えればそれはスパルタ側が全力で戦おうとしている証しであった。
このような的確な情勢判断があったにもかかわらず、功を急いだクセルクセスはあえてテルモピュライ峠で戦端を開き、6万人以上もの兵力を擁したペルシア軍は、レオニダス1世率いるわずか300人のスパルタ軍重装歩兵と6000人のギリシャ諸国連合軍に苦戦し、最終的に峠を突破するのに数万人もの犠牲を払わなければならなかったのである。この戦いにおけるクセルクセスの情報軽視は明らかであろう。
しかし、テルモピュライの戦いで痛手を負ったものの、ペルシアの進軍は止まらなかった。そこでアテナイの軍人、テミストクレスは海戦によって雌雄を決することにしたのである。
テルモピュライの戦いから1カ月後、テミストクレスは配下のペルシア人奴隷であるシシンヌスを密かにクセルクセスの下に送り込んだ。シシンヌスは「サラミス海域に集結しているギリシャ連合軍の艦隊は、ペルシア軍を恐れて四散しつつあり、これを叩くのは今しかない」とクセルクセスに伝えたのである。