太平洋戦争の終結は、日本のインテリジェンスに大きな空白をもたらした。
戦前日本のインテリジェンスの中枢を担ったのは陸海軍、外務省、そして内務省といった組織であるが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が陸海軍と内務省の解体を命じたため、日本政府は対外情報どころか国内の治安情報の収集すらままならなくなっていく。
陸軍参謀本部二部長(情報)を務めた有末精三・元陸軍中将らはGHQ参謀第二部(G-2)のチャールズ・ウィロビー少将に接近し、元軍人を集めたグループを結成する。だが、有末らの目的が旧軍の復活にあったため、GHQから警戒され、最終的には見放されることになった。
他方、内務省は解体されたものの、国内の共産主義勢力や右翼を監視するという名目で、公安調査庁と公安警察を設置し、その命脈を保つことに成功している。こうして戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーは、内務・警察官僚を中心に構築されていくことになる。
叶わなかった
吉田茂政権の構想
戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの雛形を構想したのは吉田茂首相(当時)だった。ジャーナリストの春名幹男は吉田を「戦後日本のインテリジェンスの父」と形容している。吉田は後に官房長官となる緒方竹虎、警察官僚の村井順とのトライアングルによって、1952年4月に内閣総理大臣官房調査室(後の内閣情報調査室)を設置した。これは米国の中央情報庁(CIA)のように、政治指導者に直結する対外情報機関を目指したものだった。
しかしこの構想は、世論の反発や対外情報収集を所掌とする外務省の反発、さらに緒方の急逝によって頓挫することになる。
この時、ロンドン・ヒースロー空港で闇ドルを隠し持っていた日本人が拘束される事件があり、日本の新聞が、この人物が調査室長の村井であると報じた。これは全くの誤報だったが、外務省が意図的に情報をリークすることで、新聞報道をミスリードしたとされる。
この一件で村井は室長を更迭され、本格的な対外情報機関を設置するという吉田らの構想は、政官のトライアングルの崩壊によって断念を余儀なくされた。こうして小規模で情報収集の権限を持たない内閣調査室が誕生することになった。
その後、日本が独立を果たし、54年3月に防衛庁・自衛隊が発足すると陸上自衛隊幕僚監部第二部が設置され、そこで情報調査の業務、特にソ連をはじめとする共産圏の情報の収集と分析を行うことになる。そのために旧軍でソ連情報を担当していた者たちが集められ、その中には太平洋戦争中、陸軍でソ連暗号解読に携わっていた広瀬栄一や後にソ連のスパイ事件で逮捕される宮永幸久も含まれていた。