今号からロシアのインテリジェンス・コミュニティーについて解説する。ロシアの情報機関といえば、欧米のスパイ小説や映画ではよく敵役として登場するが、2018年に公開された映画『レッド・スパロー』では、ロシア情報機関の生々しい内実を描いて話題となった。
冷戦期までは、国内外を担当する国家保安委員会(KGB)と、軍事情報を専門とする参謀本部情報総局(GRU)の二本柱で成り立っていた。戦前、日本国内でジャーナリストとして活動し、日本軍の機密をモスクワに送り続けていたリヒャルト・ゾルゲはGRUのスパイだ。最終的にゾルゲは日本の特別高等警察に逮捕され、1944年11月に処刑された。だが、ロシアでは現在でも英雄扱いで、歴代の駐日ロシア大使もゾルゲの墓参りを欠かさない。
ロシアにおいて軍人や情報機関員は「シロビキ(力の組織)」と呼ばれ、その影響力は政界にも広く及んでいる。80年代にソ連の指導者となったユーリ・アンドロポフは元KGB議長であったし、現在のロシア大統領ウラジミール・プーチンもKGBの出身であることは周知の通りだ。
つまりロシアの情報機関は政治指導者と直結しているため、ロシアで権力を握りたいのであれば、シロビキの一員となるのが近道といえる。日本的な感覚でいえば、霞が関の有力官庁に就職するようなものであろう。
現在のプーチンもKGBの後継である連邦保安庁(FSB)と対外情報庁(SVR)を重視しており、『ニューズウィーク』誌の記事によると、「プーチンが一日の初めに目を通すのは、FSBの国内情報、SVRの海外情報、連邦警護庁(FSO)のクレムリン内部の情報。その次にロシアの一般メディアの要約、高級メディア、ドイツの新聞。外国メディアには価値を置かない」といった具合に、今でもロシアのインテリジェンス・コミュニティーは政治の中枢で存在感を示していることが分かる。
KGB産の〝劇薬〟
傘の先で足を突き……
ロシアの情報機関が政治指導者に重用されるのは、その情報の質が高いためであることは言を俟たないが、さらにロシアの情報機関を特徴づけているのは、卓越した秘密工作の能力だ。FSB長官時代のプーチンは、ボリス・エリツィン元大統領の政敵を女性スキャンダルによって失脚させることに成功し、政界で重用されるようになった。
ロシアの情報機関は暗殺工作とプロパガンダ、サイバー攻撃能力については他国の追随を許さないほどの高度な技術を有している。まずは暗殺工作についてだが、この分野はロシアとイスラエルの二強といってよいだろう。前回の本連載で述べたように、イスラエルの情報機関は爆発物によって標的を殺害する傾向があるのに対し、ロシアの情報機関は毒物を多用することで知られている。
個人的には78年9月のゲオルギー・マルコフ暗殺に戦慄を覚える。マルコフはブルガリア出身のジャーナリストであり、英国に亡命を果たした後、ブルガリアの共産政権を批判し続けた。そこでブルガリア秘密警察は、マルコフの口を封じるために暗殺工作を企てたのである。
同秘密警察はKGBから傘型の空気銃と劇薬のリシンを詰めた直径1.5㍉メートルという極小の金属弾を提供され、実行犯はブルガリア当局が用意したようである。9月17日、ロンドンのウォータールー橋でバスを待っていたマルコフは、何者かに傘の先で右大腿部を突かれた。
その瞬間、マルコフは痛みを感じたようだが、特に異常は見られなかったため、そのまま自宅に帰ったようである。しかしこの時、既にリシン弾が体内に打ち込まれており、マルコフは4日後に衰弱死した。