今号から世界各国のインテリジェンス機関について解説していこう。最初に英国を2回に分けて扱う。
英国のインテリジェンスというと、まず映画『007』でダニエル・クレイグが演じるジェームズ・ボンドが思い浮かぶほど、秘密情報部(MI6またはSIS)の存在感は大きい。実際のインテリジェンス・コミュニティーにおいてもMI6は中心的な役割を果たしているが、その他にも保安部(MI5)、軍事情報部(DIS)、政府通信本部(GCHQ)などが英国のために日々、情報収集活動を行っている。今回は「MI6」とはどのような組織なのか見ていきたい。
英国のインテリジェンスの歴史は古く、その源流は16世紀のエリザベス朝時代に、宰相フランシス・ウォルシンガムが設置した組織にあると言われる。ただMI5やMI6が設置されたのは1909年のこと。そのきっかけとなったのは意外にもある小説だった。
それは06年にジャーナリストのウィリアム・ルクーが発表した『1910年の侵攻』という本で、今風に言えば架空戦記である。近い将来にドイツ軍が英国に侵攻してくるというもので、当時英国で大ヒットした。同時に、英国の世論はドイツの脅威を過度に恐れるようになり、ドイツのスパイや協力者が国内に跋扈(ばっこ)しているのではと疑い始めた。
これを受けて当時のアスキス政権は、09年7月に秘密情報部(SIS)と保安部(SS)を設置してドイツの脅威に対処しようとしたが、実際にはドイツのスパイなどほとんど存在していなかった。そのため両組織が活躍するのはもう少し後の、二つの世界大戦の時期であった。
第二次世界大戦において、両組織は秘匿のため陸軍情報部(MI)の肩書を与えられることになる。当時、英陸軍情報部内には第1課(MI1)から19課(MI19)まで存在しており、空室となっていた5課が保安部、6課が秘密情報部に与えられたことで、現在にまで続く呼び名が定着したのである。
通称「サーカス」
リクルートも秘密裡に
MI6の方はその後も存在を秘匿するために様々な通称が与えられた。「サーカス(本部がロンドン中心部のケンブリッジ・サーカスにあったという噂から)」、「レゴランド(本部の建物の外見から)」、「河向こうの友人(ロンドンの政官庁街から見るとテムズ河の対岸に本部があるため)」などのユニークな呼び名が乱立し、もはや正式名称の「SIS」で呼ばれなくなって久しい。今や議会の公式資料でさえ「MI6」表記なのだ。
こうした秘密保全が徹底された結果、国民がMI6の存在を知ったのは、1962年に『007』シリーズが映画化されてからのことだという。しかもその後もMI6の根拠法が制定されなかったため、法的には存在しない状況が続き、「MI6の情報部員には殺しのライセンスが与えられている」といった都市伝説まで流れた。最終的に94年にようやく関連法が整備され、政府はMI6の存在を認めるに至った。
この秘匿性ゆえにリクルートも秘密裡に行われてきた。オックスフォードやケンブリッジといった名門大学において、MI6とのパイプを持つ教授が仲介して、優秀な学生に声をかけるというものである。ただこれだと、毎年決まった学部・学科の学生から採用することになり、学生の質や専門に偏りが生じる。特に英国のエリートは哲学や文学といった人文科学を好む傾向があり、MI6の情報部員は理系の知識に乏しいとされる。
この弱点は、2003年にイラクの大量破壊兵器調査の際に露呈した。当時MI6の本部にも理系の素養のあった分析官は少なく、イラクから報告される化学兵器に関する断片的な情報を上手く分析できなかった。その結果、本来ありもしない大量破壊兵器がイラクに存在する旨の情報を当時のブレア政権に上げたとされる。
もう一つの問題は、MI6が外に閉じた組織であるがゆえに、内部の結束は固いが、一旦内側にスパイが入り込むと、浸食されやすい点である。その代表格が、長年MI6と同時にソ連のダブルスパイであったキム・フィルビーである。彼はケンブリッジ大学在学中の1929年にソ連側にリクルートされ、その後、MI6に採用されたまま63年の発覚まで部内情報をソ連側に提供していた。その他にも当時のケンブリッジ卒の4人の学生がソ連にリクルートされたまま、MI5やMI6などにも採用され、多くの機密情報が流出している。
これらの問題を受け、MI6は人材の多様性確保の観点からようやく2005年10月になって初めて公式ウェブサイトを開設し、オープンな人材募集を始めた。応募条件は本人、および両親のどちらかが英国籍であること、18歳以上で過去10年間に5年以上英国に住んでいることなどで、初任給は年収440万円程度だという。10年には初となる公式史を発表し、国民への説明責任を果たそうとしている。
実際のMI6の仕事は映画のような潜入・破壊工作などではなく、基本的には海外に出向いて、パーティーや国際会議の場などで海外の要人と接触し、人脈を広げながら情報を得ることである。
潜入技術ではなく
社交術を身につける
そのためMI6の情報部員にとっては射撃術や格闘技などよりも、外国語の素養やコミュニケーション能力が求められ、初対面の相手と話し続けられるよう、研修によって幅広い教養(社交術)が仕込まれるという。私も立ち話程度の印象だが、彼らは非常に物腰が柔らかく、私が日本人と知ると、すぐに日本の政治経済に関する話を振れるぐらい、幅広い知識を持っていることに驚かされた。
さらにMI6の情報部員は優れた情報アナリストでもある。収集と分析を両方こなせる人材は流石に少ないと聞くが、MI6では情報分析の素養も重視されており、そうした人材は内閣府の合同情報委員会(JIC)に出向し、時の政権の外交・安全保障政策のための情報ペーパーを日々作成している。
このように実際のMI6は映画ほど派手な活動はしないが、それでも英国の国益を守るという使命感は情報部員の間でしっかりと共有されている。かつてMI6で長官を務めたサー・ジョン・サワーズは、あるインタビューでこう語っている。
「私たちに殺しのライセンスはないし、欲しくもない。MI6の任務は指導者に情報を提供することで、軍事工作はしない。それでも私は007の大ファンだがね。ダニエル・クレイグは最高だ!」
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■押し寄せる中国の脅威 危機は海からやってくる
Introduction 「アジアの地中海」が中国の海洋進出を読み解くカギ
Part 1 台湾は日米と共に民主主義の礎を築く
Part 2 海警法施行は通過点に過ぎない 中国の真の狙いを見抜け
Column 「北斗」利用で脅威増す海上民兵
Part 3 台湾統一 中国は本気 だから日本よ、目を覚ませ!
Part 4 〖座談会〗 最も危険な台湾と尖閣 準備なき危機管理では戦えない
Part 5 インド太平洋重視の欧州 日本は受け身やめ積極関与を
Part 6 南シナ海で対立するフィリピン 対中・対米観は複雑
Part 7 中国の狙うマラッカ海峡進出 その野心に対抗する術を持て
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