〈日本の藝術を研究すると、紛れもなく賢明で、達観していて、知性の優れた人物に出会う。彼は何をして時を過ごすのか。地球と月の距離を研究しているのか。違う。ビスマルクの政策を研究しているのか。違う。彼が研究するのはたった一本の草だ。しかしこの一茎の草の芽がやがて彼にありとあらゆる植物を、ついでに四季を、風景の大きな景観を、最期に動物、そして人物像を素描させることになる〉(圀府寺司訳)
南仏アルルからフィンセント・ファン・ゴッホが弟のテオにあてて、1888年9月24日付けで送った手紙の一節である。
故郷のオランダからアントワープなどへ遍歴を重ねた画家のゴッホが、パリ行きを決意してモンマルトルのテオの下宿に同居したのは1886年3月、33歳の時である。
画壇は「印象派」が新しい色彩の革命へと移ろう時代だった。折からパリでは日本から輸入された北斎や広重らの浮世絵をはじめ、日本の美術工芸品が人気を集め、空前のジャポニスム(日本趣味)のブームを広げていた。
絵のなかのエキゾチックな男女の風俗や、人間が造形したような繊細な自然がゴッホの想像力を駆り立てたのは疑いない。背景に広重や国貞らの浮世絵を飾った『タンギー爺さんの肖像』や渓斎英泉の花魁図をそのまま写した『日本趣味・雲竜打掛の花魁』、広重の『亀戸の梅』を模写した『日本趣味・亀戸の梅』などはいずれも1887年の作品であり、パリのゴッホがどれほど日本趣味の虜となっていたかは一目瞭然である。

このころジャポニスムの華が咲いたパリでは、輸入された浮世絵がしばしば展示会で紹介されたほか、日本美術を専門とする画商のサミュエル・ビングが雑誌『藝術の日本』を通して日本からの情報を伝えた。日本に外交官として滞在したピエール・ロチや日本通の作家のゴンクール兄弟らが書く小説や解説は、歪んだまなざしを含んだ〈日本〉をめぐるイメージを広げ、ゴッホの視界に大きくクローズアップされたのであろう。
〈日本の春はイタリアの春と同じように心地よい。陽光はフランスよりも明るく暖かいようだ。ぼんやりと霞んだ雰囲気は花を開かせ、その数もヨーロッパより多い。日本の花のなかでもとくに壮観なのは桜の花で、時には山全体を花で包み、薔薇色の雲のように見える。鳥たちや輝く虫たちが花咲く木の周りを飛び回り、自然のすべてが宴を迎えたかのようだ〉