2024年12月26日(木)

絵画のヒストリア

2024年11月24日

 20世紀初頭から第一次世界大戦期にかけて二期にわたってフランスの首相を務め、その辣腕から〈タイガー〉と恐れられた政治家のジョルジュ・クレマンソーが、画家のクロード・モネと出会ったのは、ふたりがまだ無名の青年だったころのパリであった。

ジョルジュ・クレマンソー(1841―1929) フランスの元首相(40代、53代)、ジャーナリスト、医師。米国の対日開戦を予測し、留学中の東久邇稔彦王に回避を提言した。(Bain News Service, publisher, Public domain, via Wikimedia Commons)

 熱烈な共和主義者で、ナポレオン三世が倒れた後の混沌の時代にジャーナリストとして言論活動に力を注ぎ、政治家として急進的な社会改革をおしすすめたクレマンソーは、かたわらで芸術に対する情熱をあたため続け、自ら小説や戯曲の筆を執った。

 印象派という新しい潮流が広がり、ジャポニスム(日本趣味)が花開いた時代にあって、クレマンソーは喜多川歌麿や歌川広重の浮世絵や香合、刀剣、陶磁器など日本の美術工芸品の蒐集でも知られた。その風貌から彼が〈ハリネズミ〉と呼んだ画家のクロード・モネとの親交は、こうした19世紀末のパリの文化的なカオスのなかで育まれた。 

クロード・モネ(1840―1926) 第一回印象派展に出品した「印象・日の出」で「印象派」の代表的画家となった。「サンラザール駅」「ひなげし」など。(Nadar, Public domain, via Wikimedia Commons)

 オランジュリー美術館に展示されているモネの連作『睡蓮』が繰り広げる〈美の饗宴〉は、この政治家と画家の間に結ばれた古い絆を抜きにして語れない。

ジヴェルニーのモネの庭(Myles Flott/gettyimages)

 片や植民地政策を攻撃し、ドレフュス事件では冤罪に問われたユダヤ人士官に強い擁護の論陣を張るなど、パリで言論と政治の舞台に活躍する〈タイガー〉と、対照的に片田舎のジヴェルニーに隠遁して、アトリエの水辺の庭の四季の花々に囲まれて画架に向かう〈ハリネズミ〉の友情は、境涯にわたった。

 「ほんの一日で良いから、美術批評家として身を立てたいという欲望に抗うことが出来ないことを、専門の美術批評家の方々にどうかお許し願いたい」という書き出しで、クレマンソーがモネの連作『ルーアン大聖堂』についての批評を自身が主宰する『ラ・ジュスティス』紙上に書いたのは1895年5月だった。

 モネがこの連作にとりかかったのはその3年まえである。

 モネは〈印象派〉という名前のもととなった『印象・日の出』を1874年の第一回印象派展に出展して以降、『ひなげし』や『サン=ラザール駅』など、風景や人物を明るい外気と光のなかに描き出す作風を確立した。官展(サロン)の伝統的なリアリズムが支配する画壇からは異端と見られてきた「印象派」は、こうしたモネの作品が象徴する色彩と光の冒険的な試みを通して、米国やロシアなど非西欧の絵画市場から注目されるようになった。

クロード・モネ「散歩、日傘をさす女性」(1873年、油彩・カンバス、ワシントン・ナショナルギャラリー蔵)(クロード・モネ, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 『ルーアン大聖堂』の連作は、同じモチーフを描く場所を変え、時間を移すことによって光と空気と色彩がほとんど劇的に変化するさまを描いた。印象派が目指した外光と空気によるリアリティーに〈時間〉と〈視点〉の移動をくわえることによって、いわば映像的な効果を探ったのである。


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