東京美術学校校長の岡倉覚三こと天心の素行をめぐって、「築地警醒会」の名で怪文書が関係者に送り付けられた。1898(明治31)年3月のことである。
〈東京美術学校は世の希望をいれず、東西両洋とも目下多数の美術家が唱道せる学説あるを排斥し、あえて一種の奇癖たる志想を以て生徒を教養し、ますます怪物的の製作を出さしめ、美術自然の発達に背馳し、大いにその進歩を障擬せり。その校長たる岡倉覚三なるものは一種奇怪なる精神遺伝病を有し、常に快活なる態度を以て人に接し、また巧みに虚偽を飾るも、時ありて精神の異状を来すに及びては非常に残忍の性をあらわし、また獣欲を発し、苛虐を親族知友に及ぼし、人の妻女を強姦し、甚だしきはその継母に通じて己が実父を疎外し、怨恨不瞑の死を致さしむる 〉
中国へ視察旅行で不在の隙を狙って、天心の腹心でもあった美術学校の図案科の教授、福地復一が仕組んだ排斥運動の端緒だったといわれる。それにしてもこの文面、天心に対するあらん限りの罵言が書き連ねてある。とりわけ人々の耳目を集めたのは、「人の妻女を‥‥」云々の、いかにもおどろおどろしいくだりであった。
27歳で東京美術学校校長という顕職を得た岡倉天心は、そのころもあふれる自信と野心に燃えていた。アーネスト・フェノロサという米国人の日本美術研究者を協力者に得て、廃仏毀釈で荒れ果てた京都や奈良の古社寺を訪ね歩き、法隆寺の夢殿を開扉して救世観音菩薩像を〈再発見〉した。
横浜の貿易商の家庭に生まれた天心は幼いころから英語に親しんだ。東京開成所(現・東京大学)を経て文部省で美術研究や美術行政にあたるようになり、フェノロサとの協力で日本美術を国際的な視野のなかで紹介する仕事は、まさにうってつけの立場にあった。若くして抜擢された初の美術学校校長という地位を追われる原因になるこの「怪文書」の醜聞も、元をたどれば10年余り前にフェノロサを伴って美術学校設立のために出かけた欧米視察旅行がそもそもの発端であった。
天心が東京美術学校で行った講義をまとめた「日本美術史」は、日本の伝統美術の歴史を世界の視野から説いた初めての通史であり、欧化主義と国粋主義のあいだに揺れる明治国家にあって、日本の伝統文化を「正統」として位置づけて説いた画期的な著述であった。文部官僚にして美術教育の理論家でもある天心はフェノロサの力を借りて、その描いた未来図を実現するために、実際の美術教育のシステムや画家と作品の流通などへ向けて動いた。
時の文相、森有礼に「美術行政の一元化」を建言して認められ、文部省の美術取締委員としてフェノロサとともに9カ月間の欧米視察旅行に旅立ったのは1886(明治19)年の10月であった。弱冠23歳の洋行である。