2024年12月10日(火)

絵画のヒストリア

2023年11月26日

 20世紀フランスの作家、マルグリット・ユルスナールの『コルネリウス・ベルクの悲しみ』は、17世紀半ばのオランダ・アムステルダムで、レンブラントの弟子だった名もない老画家がひとり運河に面した屋根裏部屋や酒場に身を寄せ、その来し方を回想する短い物語である。 

 〈酔払いの意識のごとく朦朧とけぶる酒場の片隅で、彼は長い時間をすごした。そこにはレンブラントのむかしの弟子たち、つまり彼の相弟子たちが、旅の話をきかせてもらいたくて、彼の酒代を払ってくれるのだった〉(多田智満子訳)

 いまも乱雑に散らかった屋根裏部屋で彼は画架の前に座り込み、買ってきたばかりの美しいオレンジや花瓶や鍋を置いて絵筆をとろうと試みる。「黄ばんだ光が部屋を満たしていた。雨はつつまし気にガラス窓を洗い、いたるところでじとじととしめっていた」。

 湿気がオレンジのざらついた球体を膨張させ、板張りの扉や床をふくらませ、銅の壺を曇らせると、彼はすぐ絵筆を置いた……。

 〈いくつかのみじめな作品をあちこちになぐり描きするコルネリウス・ベルクは、夢のなかではレンブラントと肩を比べているのだった〉

経済の集積地として栄えたアムステルダム

 ハプスブルク家のスペインの強権の下にあったネーデルランドは、1648年のウェストファリアの和議で独立、カトリックのくびきから解かれた。海上覇権が西インド諸島や南米など植民地の富をもたらし、人と資金の流入と新しい技術の発展を促した。アムステルダムはその担い手の商人たちが息づく都市だった。

 1585年におよそ3万5000人だった人口は、レンブラントが『夜警』を描いた1642年には15万人に膨れ上がった。商人たちは交易上の欧州の要となったこの都市に集まり、自由な宗教的風土のもとで光学技術や金融などのビジネスチャンスを広げた。

 ライデン市の製粉業者の息子に生まれ、早熟な画才を発揮したレンブラント・ファン・レインは、25歳でアムステルダムに仕事場を構えた。

 妻のサスキアは父親が市長や高裁判事を務めた名門の出身だった。この婚姻で若いレンブラントが手にした富と名声は、当時富裕な商人層から需要の多かった肖像画をはじめとする作品の受注に大いに貢献した。1642年に妻のサスキアは結核のために30歳の若さで急逝するが、奇しくも同じ年に描いた『夜警』は画家の生涯の代表作となり、妻の遺産はその後の画家の苦境を大いに支えた。

レンブラント「夜警」(1642年、カンバス、油彩、国立アムステルダム美術館蔵蔵) 写真を拡大

 『夜警』の画面の中央で左手を前へ伸べて背後の人々を導くかのような姿の主人公は、アムステルダムの独立と自由の守護者たる市警軍射撃隊長のフランス・バニング・コック。

 ブレーメンから移民した薬剤師の息子で、大学で法律を学んで裕福な一族から妻を迎え、のちに市長の職にもついた、立志伝中の人物である。

 大きなレース襟に黒衣、赤い肩章をつけて、右手には長い指揮棒を持つ「射撃隊長」はこの街でどんな役割を担ったのか。


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