チューリップ・バブルが呼んだ夢とはかなさ
アムステルダムの港では東インド会社から戻った大型船から積み荷を降ろすクレーンが忙しく立ち働いていた。ヴェネツィアから伝わったガラス技術はレンズや光学技術の華をこの都市で開花させていた。
『夜警』のモデルとなった市民たちが映す自治意識の高まりとともに、当時の欧州では最も豊かな経済社会がここに生まれつつあった。そして市民の所得の向上と金余りが投機的な市場を広げてゆくのは、現代と変わるところはない。
『夜警』が描かれる少しまえ、こうしたアムステルダムの発展と殷賑を象徴するような「熱狂」が市民たちの間に広がって、それが社会的なブームをよびおこした。そして、やがて突然それは終息する。チューリップ・バブルと呼ばれる投機ブームである。
1630年代に入って、オスマン帝国から輸入されたチューリップの花がネーデルランドの各都市で爆発的な人気を集めて、その球根の価格が急騰した。例えば「無窮の皇帝」(センペル・アウグストゥス)と名付けられた品種は、赤紫と白の縞模様の花弁が人々から珍重されて、1623年のから37年の14年間で取引価格は10倍にはねあがった。
富の象徴となったチューリップの球根一個で、アムステルダムの小さなタウンハウスが買えた。5ヘクタールの土地との交換という取引が市場でとりざたされた。
チューリップは欧州社会の在来種ではなく、東方から輸入される異文化性に人々の熱い眼差しが注がれた。種から球根を育てるのに7年から12年もかかることにくわえて、ウィルスによってできる花の文様の変化は不確実性が高く、平凡な球根があの「無窮の皇帝」に生まれ変って咲くという可能性もある。それが投機の対象としての熱狂を呼んだ。
〈チューリップ狂がはじまったのは、1634年ごろ、パリやフランス北部で球根の価格が上昇しているとの話を聞いたためだろうが、新たな参加者がチューリップ市場に登場するようになってからである。後にオランダの園芸家に「ど素人」だと軽蔑されるようになるが、蟙布屋、紡績屋、靴屋、パン屋、雑貨屋、農民などが市場に加わるようになった。チューリップ熱が高まって、社会階層のほとんどを巻き込むまでになった……〉(エドワード・チャンセラー『バブルの歴史』山岡洋一訳)
アムステルダムではいくつもの居酒屋の一室にブローカーや投機家が集まって、取引が行われた。相対の取引と入札という二つの方法で、さまざまな職業の人々が酒食をともにしながら取引した。
チューリップ熱がピークに達する1636年後半から翌年にさしかかると、実物の球根のやりとりのない先物取引や信用取引が登場して、市場の実態とかけ離れた投機が年収の5倍といった莫大な利益を生む反面、債務不履行による損失を抱えてうろたえる人々が目立つようになった。
レンブラントが『夜警』を描く5年ほど前の37年春、この街で空前の投機ブームを起こしていたチューリップの球根の相場が、突然暴落した。
「チューリップ・バブル」の崩壊である。
一個のチューリップの球根に人々が途方もない欲望と夢を託して膨らませ、やがてそれが突然はじけた風船のように消えた〈チューリップ・バブル〉の悲喜劇は、同時代の画家たちによって辛辣な風刺画の主題となった。
ヤン・ブリューゲル(子)の『A Satire of Tulip Mania(チューリップ狂への風刺)』(1640年)では、植民地の宮殿のような画面に描かれているモデルはすべて猿である。この時代の上流階級の服装の猿は愚かな投資家に見立てられている。別の猿は貴重な植物の上に放尿し、さらに破産裁判所に出頭する猿や墓に運ばれている猿もいる。