昭和の初め、首相官邸に隣接する赤坂で、ある料亭が帝都の貴顕たちを騒がせていた。2000坪を超える敷地に多数の客間や茶室を備え、料理人だけで三十余名が働くこの「星岡茶寮」を率いたのは、かの北大路魯山人。書家、陶芸家にして希代の料理人、まさに異能の男であった。
不幸な生い立ちから養家をたらい回しにされた魯山人は、京都の木版師のもとで「書」に出会い、芸術の道に歩みを進める。書の腕前、それを活かした篆刻や扁額の出来栄えが、芸術家や趣味人の眼に止まる。やがて、京都の数寄者に骨董や美食の道に導かれ、その紹介で滞在した金沢では、一番の料理人から手ほどきを受け、かの九谷焼で陶芸にも手を染める。いずれも、その類まれなる才能が達人たちから愛された結果であった。みな父親のように、厳しく接しつつ、心の底から魯山人を応援するのである。
だが──そうした支援者ことごとくを、魯山人は裏切り、何かに抗うように背を向けてゆく。そこにこそ、この男の本質、そして謎がある。
東京に出て、盟友中村竹四郎と骨董屋を営み、その2階で美食倶楽部を始めて話題となるも、関東大震災ですべて灰燼に帰した。魯山人はここで大勝負にうって出る。中村とともに、閉店状態だった星岡茶寮を買い取り、まったく新しいスタイルの会員制料亭をスタートさせる。
日本一の食材を金に糸目をつけずに買い集め、素材の良さを充分に引き出すことに心血を注ぎ、料理に相応しい器に盛って、料亭らしからぬ料理を次々と繰り出してゆくのだ。給仕は素人から選抜し、自らデザインした制服を着させて、厳しく仕込む。料亭に付きものの芸者は出入りを禁じ、ひたすらに料理に向き合うことを客に求めたのである。
これが話題とならないはずはない。当初、100人を超える程度だった会員数は、やがて1000人を優に超える数に膨れあがった。それに要する膨大な数の器を揃えるため、魯山人は鎌倉に巨大な窯場を設ける。荒川豊蔵ら、名のある職人を各地から集めて作陶させ、成形された下地に自らデザインを施し、料理にあった器を作ってゆく。いまに残る魯山人の器の登場であった。
だが、もともと金銭感覚に欠けるところに、大成功で気が大きくなった魯山人は、茶寮でも、私生活においても、湯水のように金を使うようになる。恩ある人々に仇なすだけでなく、高名な文化人らに喧嘩を売って物議を醸すなど、傍若無人ぶりが極まってゆく。黙ってこれを支えていた中村だったが、断りなく大阪星岡の建設を進めるに至り、遂に堪忍袋の緒を切らす。土地家屋の所有権を盾に、魯山人を星岡から追放するのである。1937年(昭和12)のことであった。