織田有楽斎をご存じだろうか。信長の年の離れた弟として生まれ、いまに伝わる茶道の流派を起こした大名茶人である。その有楽斎が晩年、茶の湯探求の集大成として丹精した茶室が、いまに残る。国宝の「如庵」である。
国宝に指定された茶室は三つしかない。京都府大山崎の禅寺、妙喜庵に建つ「待庵」は、かの千利休が遺したとされる。もう一つが、京都大徳寺の塔頭、龍光院にある「密庵」で、伝えられる作者は小堀遠州。名園家としてよく知られるが、利休、古田織部に続き、江戸初期の茶の湯を牽引した大茶人でもあった。
時代は安土桃山から江戸へ。有楽斎は、その血筋を生かし、真似のできない遊泳術で乱世を泳ぎ切ってゆく。本能寺の変を受け、信長の二男、信雄に従い豊臣秀吉と敵対するも、信雄が屈し、徳川家康も秀吉との和睦に向かうと、一転、両者の仲介役を務める。秀吉の天下では、世にいう御伽衆としてしたたかに生き延び、秀吉の死後、関ケ原では家康方について戦功を上げる。大和に3万石を得て、大名となっている。
その後、大半の大名が徳川家に臣従してゆく中、有楽斎は大坂城の豊臣家に出仕する。姪にあたる淀殿を後見するためというが、そんな二股が許されたのは、その血筋に加え、和歌や茶の湯に秀で、家康からも一目置かれていたからだ。
有楽斎は信長の傅役だった平手政秀の娘を正室とした。政秀は京の文化に通じた教養人として知られ、有楽斎はその婿となって、武芸より文芸の道に深く馴染んできたのだ。
やがて、家康による豊臣家への威圧が強まると、有楽斎は両家の和解に意を尽くす。だが、大坂城内で主戦派が力を増すと、夏の陣を前に、さっさと城を出てしまう。そんな芸当は誰にもできない。戦後は、領地を息子に分け与え、茶の湯三昧の日々を送る。京都建仁寺正伝院を再興、そこに隠居所を設け、思いのままに造ったのが如庵であったのだ。