2023年12月6日(水)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年8月27日

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橋場日月 (はしば あきら)

作家

1962年大阪府生まれ。史料群から独自の視点で新しい可能性を発掘し、日本史を見直すことに努める歴史作家。月刊誌「Wedge」で「戦国武将のマネー術」の連載をしてきた。著書は『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』 (講談社)等多数。

 永禄13年(1570年)3月に上洛して騎馬パレードを催し、将軍・足利義昭の上覧に入れた徳川家康。4月14日には義昭が二条御所で行った猿楽興行見物にも参加したが、20日、その姿は若狭国の熊川宿(現在の福井県三方上中郡若狭町熊川。琵琶湖の北西)にあった。若狭街道の中継点だが、一体全体なぜに家康はそんなところに居たのだろうか。

越前攻めの際に家康が宿営した熊川宿。交通の要衝で、江戸時代には番所が置かれた(筆者撮影、以下同)

 それは、越前国朝倉義景を討つためだった。

 2日遅れで進んでくる織田信長の、完全な先駆け部隊としての行軍。これは、信長が将軍・義昭の名代としての〝幕府軍〟司令官、家康はそれに従軍する一大名、という位置付けだから当然の編成だ。

 前回『家康は本当に「鳴くまで待とう」の精神だったのか』では、家康は敵と味方をハッキリ区別し、一旦敵に回した相手は息の根を止めるまで手を緩めず痛めつけるという話をしたが、一方で彼は上の立場の者には徹底的に腰が低い面も持ち合わせている。この時期、武田信玄は「ただただ信長の意に沿おうとする男だ」と家康を評している。それは家康自身が「自分は信長殿の先鋒として遠江に進攻している」と信玄にアピールしていたためでもある。 

 ましてや、信長と将軍・義昭のセットとなればその特徴はますます前面にドドン!と出て来ざるを得ない。

将軍・義昭からは不遇な扱い

 この時期から5カ月後だが、将軍・義昭が家康に送った書状がある。その宛名書きは何だと思うだろうか?

 普通は「徳川三河守殿」となるはずだが、義昭はなんと「松平蔵人殿」と書いて寄越した。これって、家康が関白・近衛前久らに運動して「徳川」名字と「従五位下」の位階、「三河守」の官途名をゲットする(前回参照)以前の呼び名なんですよ。

 実は義昭は「兄の十三代将軍・義輝を殺し、ライバルの従兄弟・義栄を十四代将軍に就けた三好党に協力した」と前久を毛嫌いし、京から追放してしまっており、その前久があっせんした家康の名字も位も官途名も全シカトしたのだ。清濁併せ呑むべきトップにしては器が小さいよね。

 もうひとつ付け加えると、義昭は上洛に協力した家康に「左京大夫」の官途名を与えたのだが、家康はそれを使っていなかった。

 だから、「俺が与えた肩書きを使わず、前久が絡んだ方を使い続けるとは、俺に対する当て付けかっ!?」と嫌がらせしたとも考えられる。足利十五代の伝統を継ぐ貴人にしては品格が乏しいよね。

 でも、家康はそんな狭量な義昭が名目上の総大将となっている越前朝倉攻めに唯々諾々と参加した。自分を否定されたようなものなのに、文句も言わずにだ。


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