2024年5月19日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年8月27日

実は狙っていた「越前ドリーム」

 でも果たして彼は信長と将軍に媚びを売るためだけに越前くんだりまで兵を率いて乗り込んだのだろうか? そこには果たして家康にとっての実益は無かったのだろうか?

 大河ドラマで越前蟹をむさぼり食べていた家康以下(ちなみに越前蟹の旬は旧暦だと1月頃までだから、家康らが食べていた蟹の味は微妙だったはずなのだが、当時は小氷河期だったらしいので旬の時季も長かったのかもしれない、などとフォローしてみたりする)は、「越前など我らに関わりなし」と不平を述べる本多忠勝を石川数正が「天下静謐のためじゃ」と諭していたが、これは本稿でも触れたように「幕府軍」としての建前。これもドラマで秀吉が「越前の港を手に入れて海外貿易で儲けるんじゃ!」と息巻いていたのが、案外真実を衝いているのではないかと考えられる。

 家康は若狭街道を北上して佐柿(現在の福井県三方郡美浜町佐柿)、東に進んで敦賀(同敦賀市)の天筒山城を攻めたわけだが、その西隣りの金ケ崎城が順調に攻め落とせていれば、そのまま北上して朝倉氏の本拠地・一乗谷まで一気に攻め込む予定だった。

 これが成功し朝倉氏を滅ぼして越前一国を平定できれば、敦賀湾と三国湊を押さえて日本海交易(海外交易を含む)を支配下に置くことができる。

 信長がそれを狙うのは当たり前だが、実はこれが家康にも魅力的なニンジンだった。

 「信長が越前国を併合しても家康に領地が与えられる訳でもないんじゃない? 得なことってあるのかね」と感じられるかも知れないが、これが大ありだった。

 越前と信長の美濃の間には、郡上八幡から三国湊まで通じる「越前街道」が存在する。越前が信長の手に落ちれば、日本海交易の旨みが濃い血のようにこの越前街道を通って美濃まで直接流れて来る……だけではない。

 越前街道は三河から尾張を通って途中の白山へ参詣する旅人が絶えず行き来する宗教ルートでもあった。宗教あるところ、商業あり。三河からの旅人も敵国ではなくなった越前へ足を伸ばすことが容易になるし、何より「関所撤廃」が信長のスローガンだったから、流通の利益は減殺されることなく三河を潤すことになる。

 家康が越前攻めに唯々諾々と従ったのは、戦後の三河-越前流通を見据えて発言権を確保しておくためだったと、考えない訳が無いのだ。その意味でドラマの越前攻めは説得力があったね。

 結果として越前攻めが浅井長政の裏切りによって失敗し、家康はまた信長に従ってふた月後の姉川の戦いに臨んだ。

 家康は開戦に先立って「2番手はご遠慮申し上げる」と信長に直訴して先陣を任されたとも、現地で徳川軍の猛気を感じた信長が急きょ先陣を徳川軍へ交代させたともいうが(『松平記』『南部文書』)、事実として「一番合戦の儀(中略)家康申し付けられ候」「一番合戦、家康公向かわせられ」(『信長公記』)と8000の朝倉軍に5000の兵力で挑んで戦いの口火を切る。そして苦戦の末に朝倉軍を破り、戦いを勝利へと導く。

 もう、この敢えて朝倉軍に向かっていくというだけでも越前利権にこだわりまくっているのが見え見えだし、この戦いに酒井家次・石川数正以下、三河・遠江を空にする勢いでオールスター武将を率いて乗り込んだのも、その意気込みの表れだった。家康は無欲で従順なふりを装いながら、その裏で達者にソロバンを弾いていたのだ。


新着記事

»もっと見る