大河ドラマ「どうする家康」では500の兵を率いていた家康だが、5000とする史料もある。のち姉川の戦いで彼が率いた軍勢も5000とするものが多い。だからやはりこれくらいはいたのではないか。
越前攻めで徳川軍は先鋒となって琵琶湖を西回りで進み、朝倉方の天筒山城南大手の口から攻め込んで幕府軍を一方的勝利に導くのだが、わずか500の兵ではとても大戦果など期待できない。幕府軍総数が3万というから、その6分の1というのは妥当な数字だろう。
見付城と浜松城、ハウマッチ?
そして4月28日、信長は北近江の同盟者・浅井長政が朝倉方に寝返ったことを知るのである。即断即決で京に逃げ帰った信長に対し、事情を知らない家康は前線に取り残される。しんがりを引き受けた秀吉とともに退却したとも言われるが、先鋒を務めていた以上そういうこともあって不思議はない。
幸いなことに退却は成功し、家康も京にたどりついて後始末に従事。岐阜城に帰る信長を見送ったあと5月18日にようやく岡崎へ帰陣した。
3月7日に岡崎を発ってから、実に2カ月半。5000の兵の軍事行動には1875石の兵糧米が必要となり、それだけで8500万~1億円のマネーがかかる。さらに副食物、馬糧、弾薬、輸送費を合わせれば2億円ぐらいの出費はあったと考えなければならない。
この時期の家康は三河・遠江2カ国の主で、総石高は55万石だった。しかし遠江は併合したばかりで戦火による荒廃もあり、また新たに従った国衆に対して褒賞として新知を与えたり、「家屋税を免除する」など優遇措置をとったり、領地交換整理の混乱もあったから、遠江の実収は半分にも満たなかったのではないか。
仮にトータルで30億円程度と考えると、その内の2億円というのは実に7%弱にあたる。現在の日本の防衛費予算が国内総生産の1.08%であることと比べると、その負担の大きさが分かるだろう。しかも、家康は遠江国統治の本拠となるべき見付城築造を突貫工事で終えたばかりであり、その経費は当然別だ。
それだけの負担を受け入れても、家康は信長の言うがまま越前へ参陣した。
ちょっと余談になるが、長いものに巻かれろ式の彼はこの直後せっかく造った見付城を放棄して引馬城(浜松城)を築いてそっちを本拠にする。これも信長から「天竜川を背にした見付城では、武田軍が攻めてきたときに川が邪魔で駆け付けられぬではにゃーか。引馬にしときゃーせ」と「意見」されたからだという(『石川正西聞見集』)。
本拠の城を二つもこしらえるハメになった家康。彼が支払った費用は不明だが、見付城は3カ月の工期と仮定し、作業員500人と置こう。建物などは粗末な掘っ立て小屋レベルで良いとして、堀・土塁や柵・塀などはそれなりに熟練のリーダーと技術者が必要だ。その数を500人の内の10人としてみよう。残り450人は非熟練の日雇いの様な作業員となる。
前者の賃金は100文、後者は10文(戦国時代の標準)。それが90日分だから、500貫文弱=4000万円前後と導くことができる(あくまで1日当たり500人が働くという前提の話だが)。
近い時期に関東の北条氏が江戸城築造にかけた費用は約3000万円という試算もある。家康が江戸入りした際にそのあまりのオンボロさに皆驚いたという江戸城にしてそれぐらいはかかるのなら、見付・引馬合わせて1億円近くをイメージしてもそう大きく上に外していないのではないか。
それだけの負担を抱え込むにも関わらず、どこまでも信長の意見に沿う家康くんなのである。