会議で部長と課長の意見が違ったとき、どちらを支持したらいいのか。
「こちら立てればあちらが立たず、あちら立てればこちちが立たず」
NHK大河ドラマ「どうする家康」ではないが、そういう場面は誰もがイヤというほど経験している。
選択を迫られて決断しなければならない局面で頭をよぎるのは、「不等号」(≷)である。
「義理と人情を秤にかけりゃ 義理が重たい男の世界」(義理>人情)
これは、今から60年近い昔の昭和40年代に高倉健が歌った映画主題歌「唐獅子牡丹」の歌詞の出だしだが、ヒット曲なので平成生まれの人も知っているに違いない。
「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」(忠>孝)
こちらは、平清盛の嫡男重盛。1177(安元3)年に発覚した平家打倒のクーデター未遂事件「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」に関わった後白河法皇を厳しく罰しようとした父清盛を、孝行息子と評判の重盛が諫めようとしたときの「心の動揺」を示す不等号の場面だ。
実は、信長の先祖は「織田系図」「織田家譜」によると清盛の玄孫(やしゃご)の平親真(ちかざね)というから、重盛と信長は血がつながっていることになる。もっとも、信長はその後、藤原信長と名乗ったりするので、真実かどうかは疑わしいが。
「姉川の戦い」は、1570(元亀元)年に起きた「信長・家康軍VS浅井・朝倉軍」の激戦で、家康の「5大合戦」ないしは「6大合戦」の1つに数えられる重要な合戦だが、家康29歳、信長37歳、浅井長政25歳、久政44歳といずれも若かった。
血縁>義理か、義理>血縁か
姉川の戦いの〝勝敗の行方を左右したキーマン〟は浅井長政である。
戦いを決断したときの長政の心境を重盛流に表現すると、こうなる。
「義ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば義ならず」(義>孝)
義は、「義兄」である(信長)の義であり、同盟を結んだ信長への「義理」の義でもある。孝は、父久政に対する「親孝行」の孝だ。
浅井長政は、小谷城を居城とする近江の戦国大名で、1564(永禄7)年に信長と同盟を結び、4年後には信長の妹お市の方を継室(後妻)に迎え、親戚になった。信長は、そういう間柄なので、長政の援軍は当然のこととして、越前の戦国大名朝倉義景を攻め滅ぼそうと考えていた。
ところが、その計算は土壇場で狂う。長政の父久政が「古くからの付き合いがある朝倉を攻めてはならぬ」と「待った」をかけたのである。
古くからというのは、信長と同盟を結ぶ39年も前を指し、南近江の戦国大名六角氏が北近江の浅井領に攻め込んできたときに援けてもらって以来の親密な関係をいっていた。
久政は、集まった武将らを前にして信長を痛罵した。
「信長は軽薄者だ」
そして、長政にこういったと『浅井三代記』は記している。
「妹のお市をそちに嫁がせたいと頼んできたのは信長の方だ。しかも、同盟を結ぶに際しては、二つのことを誓詞を交わして約束したではないか。一つ、朝倉とは戦わない。一つ、合戦する場合は事前に連絡する。だが信長は、どちらも無視した」
長政は「義兄と父の板挟み」に苦しんだ末、信長を裏切って朝倉を選ぶ決断「孝行>義理」をしたが、「近くの他人>遠くの親戚」「旧勢力>新勢力」という言い方もできた。