2024年11月25日(月)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年4月16日

 家康と信長の関係を付記すると、信長・家康同盟は信長・長政同盟より2年も早く、その翌年(永禄6年)には家康の嫡男竹千代(のち信康)と信長の養女(五徳〈ごとく〉、徳姫)が婚約し、両家は親戚になっている。2人はともに9歳。典型的な政略結婚だった。

 信長も、戦国大名の例にもれず、政略結婚には熱心で、武田信玄とも縁戚関係を結んでいた。養女(姪)を勝頼に嫁がせ(1565(永禄8)年)、その2年後には11歳の嫡子奇妙(のちの信忠)の嫁に7歳の信玄の娘(のちの新館〈にいだて〉御寮人)を貰い受けている。

家康、絶体絶命の信長を救う

「姉川の戦い」の原因は何だったのか。なぜ信長は「朝倉征伐」を仕掛けたのか。

 原因には近因・遠因があり、遠因は織田・朝倉両家の確執、そして近因は近江の戦国大名朝倉義景が信長を敵視したことに加えて、15代将軍足利義昭の存在である。

 織田・朝倉は、どちらも南北朝・室町時代は越前の守護大名斯波(しば)家に仕えていた当時から犬猿の仲だった。その後、朝倉は5代当主義将(よしゆき)の代に越前の守護代に任ぜられ、織田は義将の子が尾張の守護に命じられると守護代に任ぜられたが、不仲は相変わらずだった。

 信長は、1568(永禄11)年9月に義昭を奉じて上洛し、義昭を将軍にした最大の功労者だったが、義政は曲者(くせもの)で、信長に「副将軍になってくれ」「父と呼ばせてくれ」などと従順を装いながら、信長の傀儡(かいらい)という扱いに憤懣(ふんまん)やるかたなく、各地の将に信長包囲網を促す密書を送付。朝倉義景には「足利家再興のために決起せよ」と何度も命じたが、そのつど無視され、上洛を要請しても応じようとしないので、「不臣のふるまひなれば、誅伐を加えずして叶ふべからず」(『三河後風土記』)と憤った。

 信長にしてみれば、朝倉を滅ぼす好機到来。家康に使いを送って「朝倉征伐の援軍をお願いしたい」と依頼し、家康は快諾した。

 信長は、朝倉攻めを前にして天皇のために築造した「二条御所の完成祝い」の能楽を4月14日に興行し、家康も参加した。義昭は、このときも朝倉義景に上洛を促したが、無視された。

 義景は天皇にも背を向けた形になり、信長は労せずして「朝倉征伐の勅許」を得、家康とともに大軍(信長3万、家康5000)を率いて京都を出立、若狭へと進軍した。1570(元亀元)年4月20日のことである。

 だが信長は、朝倉・浅井を滅ぼすのに手こずった。

 敵の城(天筒城〈手筒城〉、金ヶ崎城)を軽く攻略したところまでは順調そのものだったが、木ノ芽峠まで進軍し、朝倉義景の居城がある一乗谷に迫ろうとしたところで戦況が一変する。「長政、裏切り」の報がもたらされたのだ。

 悪いことは重なり、南近江の六角義賢まで朝倉勢に加担、「織田・徳川+浅井>朝倉」は「織田・徳川<朝倉+浅井+六角」となり、挟み撃ちにするつもりが、急転直下、逆に挟み撃ちにされる〝絶体絶命〟の状況に直面した。

 信長は動揺したが、退却を即断。豊臣秀吉に殿軍(しんがり)を命じると「朽木越え」という難所を通って逃走するルートを選んだ。これが世にいう「金ヶ崎の退(の)き口」だ。

 のちに家康は、「本能寺の変」(1582〈天正10〉年6月)直後に命を狙われたときの逃走経路として〝最も危険な最短ルート〟である「伊賀越え」を選ぶが、そうしたのは信長の先例に学んだからかもしれない。


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