2024年12月22日(日)

令和のクマ騒動が人間に問うていること

2024年11月21日

 「ガサガサ」「ゴンゴン」──。

 目の前にあるドラム缶型のわなの中から重たい衝撃音が響き渡る。時には「ガリガリ」と、爪でひっかく音も聞こえ、思わず鳥肌が立った。まさに今、この中に人間に飼い慣らされていない、野生のツキノワグマが入っているのだ。

ドラム缶わなの中から、力強く鈍い音が何度も響き渡る(WEDGE以下同)

 クマを追いかけ続けて約2カ月。本特集の取材も終盤に差し掛かった10月20日、小誌取材班は目の前で野生のクマを見る機会に恵まれた。

 クマはドラム缶わなの中で体をくねらせ、頻繁に向きを変える。麻酔を打つ数センチ・メートルののぞき穴の方にお尻を向かせるために、反対側の隙間から雑草を差し込んでクマの意識を引く。そして、一瞬で麻酔銃が放たれ、数分後、クマは寝息を立てて、眠り込んだのである。

暴れるクマを眠らせる
緊迫した個体識別の現場

 長野県軽井沢町。日本有数の避暑地として知られ、別荘が立ち並ぶこの町は、「森の中に人が住んでいる」と言っても過言ではなく、人間とクマが住むエリアが複雑に重なり合っている。クマの目撃情報も相次いでいるが、約14年もの間、人間の生活域でクマによる人身被害は1件も起きていない。

 どうして安全な状態が保たれているのか。背景の一つには、軽井沢町からの委託を受けて、ツキノワグマ保護管理事業に取り組んできたNPO法人ピッキオの存在がある。

 ピッキオは、人の安全を守ること、野生のツキノワグマを絶滅させないことの実現を使命として活動している。同町からの委託を受けた2000年から、試行錯誤を重ね、地道な対策、活動を通じて、地域住民の信頼を勝ち取ってきたプロフェッショナル集団である。04年にはクマを吠え立てる「ベアドッグ」をアジアで初めて米国から導入したことでも知られる。

写真左から、関良太さん(41歳)、大嶋元さん(49歳)、田中純平さん(50歳)。ピッキオが誇る「クマチーム」の精鋭だ

 今回取材班が見たクマはシカやイノシシのくくりわなに「錯誤捕獲」された個体だった。こうした時には、麻酔薬を使用してクマを一旦眠らせ、個体識別を行ってからドラム缶わなに入れる。数時間後、クマが覚醒するタイミングを見計らい、人間の大きな声やベアドッグの吠える声、花火などを活用し、「人の気配を感じたら、急いで逃げなくてはいけない」とクマに学習させ、山の中へ放獣(学習放獣)するのである。今回は一時的にドラム缶わなにクマを移してから個体識別を行う珍しいケースだった。

 対応にあたったのは通称・クマチームの田中純平さん(50歳)と大嶋元さん(49歳)。この日は彼らの技術や学習放獣のやり方を実地で学ぼうと、県内市町村の職員をはじめ、フランスやオランダなど、海外から3人のインターン生も現場に駆け付けていた。

 時刻は9時30分過ぎ。作業はまず、麻酔薬の入った投薬器をガス圧で発射する「麻酔銃」でクマを眠らせることから始まる。麻酔薬の投与量はクマの体格や体重によって決める必要があるので、目利き力、技術力が問われる。

 麻酔が効いた後に正確な体重を計測し、必要に応じて追加投与することもある。また、季節によってはクマの脂肪層が厚くなるため、針の大きさを変えることもあるという。

 
麻酔薬を注入した投薬器。命中した箇所を識別しやすくするため、針の反対側には赤い布が取り付けられていた

 麻酔銃の準備を終え、冒頭のシーンを迎えた。田中さんはのぞき穴からライトで中を照らし、クマの背中が見えることを確認すると、素早く麻酔を打ち込んだ。その間、わずか数秒。見事、左腰付近に命中した。

 「体育座りで眠っていますよ」

 大嶋さんにそう言われドラム缶に近づくと、「フー、フー」と、2秒おきくらいにクマの大きな寝息が聞こえてきた。

小さなのぞき穴からドラム缶わなの中を見ると、丸まったツキノワグマの肉球が確認できた
 

 いよいよドラム缶わなの施錠が解かれ、扉が開いた。クマはぐっすり眠っている。ネットにクマを滑り出させると、3人がかりでクマを持ち上げ、シートの上に移動させた。前脚・後脚をそれぞれゴムロープでくくる。麻酔が効いている間、クマは目を開けたまま寝ているため、眼球を傷つけないよう軟膏を塗り、光の刺激を与えないよう布も被せる。体長や手の大きさ、首囲などを素早く計測し、個体識別を進めていく。

シート上に移動させたツキノワグマ。柔らかい筋肉に包まれたその体からは、土や森にも似た〝自然そのもの〟のにおいがした

 今回のクマは体重60キロ・グラム前後、5~6歳のやせ形で、立ち上がったら160センチ・メートル前後の大きさであることが分かった。

 DNAや食歴を分析するためにペンチで体毛を抜き取り、首には発信器とGPSを装着する。一本だけ抜歯も行う。

実際に抜歯するのは、米粒ほどの大きさの退化した歯だ

 最後に、採血を実施する。環境省の事業で実地訓練に来ていた方がクマの右前脚に手を押し当てて脈を探すが、数分かけてもなかなか見つけられない。田中さんが手を添えながら「この筋の間にこう走ってますね」と、コツを伝授していた。

 終盤、クマの耳が少し震え始めた。急に覚醒することはないそうだが、「呼吸数が変化したり、少しだけ頭を動かしたり、覚醒の予兆を察知できるようになることも重要な技術の一つです」と田中さんは話す。

 麻酔が効く時間は個体によっても異なるが、抜歯など、クマへの負担を考えると、1時間以内に終えることが望ましいという。時間との闘いというプレッシャーに晒されながらも、手際よく行うには、正しい知識と地道な訓練を積み重ねることが必要であることは明らかだった。

 10時30分過ぎ、ドラム缶わなにクマを戻し、作業は安全に終了した。


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