信長が逃走を決断したとは露知らぬ家康に「殿は逃げた」と教えたのは秀吉だった。秀吉は体を張って戦い、家康も殿軍に加わって鉄砲隊に側面攻撃を命じ、信長の逃走を助けた。「秀吉と家康がいなかったら、信長は死んでいた」といわれる所以(ゆえん)である。
家康が浜松に戻ったのは5月18日、信長が岐阜に戻ったのはその2日後だった。
信長の怨念>浅井・朝倉の滅亡
信長は、金ヶ崎の退き口から1ヵ月も経っていない6月11日に、再び家康に援軍を要請し、19日に3万の大軍を率いて岐阜を出立した。
家康の家臣は、援軍に大反対だった。
「信長様への義理はこの前の戦で果たされたではありませぬか。今回はお断りくだされ」
だが、律儀な家康の頭に断る選択肢はなかった。信長に遅れること3日、6月22日に5000の兵を率いて浜松城を出発。27日に現地で合流し、信長と対面した。これが1570年の「姉川の戦い」の序章である。
この合戦では織田・徳川軍1700余人、朝倉・浅井軍800余人もの死者が出たが、浅井久政・長政親子も朝倉義景も戦死せず、彼らを自決に追いやり、浅井・朝倉両家が滅ぶのは、信長が将軍義昭を追放した翌月の1573(天正元)年8月の戦いまで待たねばならない。
浅井・朝倉、特に浅井親子に対する信長の怒りと怨念は尋常ではなかった。信長は、浅井親子の首を京の都にさらし、そのとき10歳だった長政の嫡子(万福丸)を殺した。
信長は、9月6日に岐阜へ帰還したが、自分を裏切った浅井長政らに対する怒りの炎は消えるどころか、ますます燃えさかり、3人の頭蓋骨で金の盃を作らせ、翌年(天正2)の新年会に集まった家臣らに披露した。髑髏盃(どくろはい)である。
不等号で表わすと、「信長の怨念>浅井・朝倉の滅亡」ということになる。