勇気と自信は若さの特権だが、ときとして暴走を招く。「三方ヶ原の戦い」での家康がそうだった。
「5分の力で勝てれば上、7分の力なら中、10分の力を出し切って勝つのは下とする」を合戦主義とする52歳の武田信玄に完膚なきまでにやられて気が動転し、馬上でしきりに爪を噛み、鞍壺を拳で叩きまくって手を血まみれにしたのは家康31歳のとき。息子信康に岡崎城を譲って浜松城へ居城を移し、浅井・朝倉連合軍との「姉川の戦い」から2年後、1572(元亀3)年12月22日のことである。
「無の境地を貫くと、生も死も関係なくなってくる。勝利は生死を越えたところにある」と達観していたのは〝信玄の終生のライバル〟上杉謙信43歳で、「死なんと戦へば生き、生きんと戦へば必ず死するものなり。運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。何時も敵を掌(てのひら)に入れて合戦すべし。疵(きず)付くことなし」と言っている。その謙信でさえ「自分が信玄に劣るのは、この一点」と舌を巻いたのが、上記の〝信玄流「5分勝利」の方程式〟だ。
なぜ最高でも6~7分の勝ち方でいいのか。その理由を信玄は、「5分の力を使った勝ち方なら今後への励みになるが、7分の力を使った勝ち方では怠る気持ちが宿り、10分の力で勝てば奢りが生じるからだ」と説明し、こう説いている。
「20代の頃は力の劣る者には絶対負けないようにすべきだが、勢いに乗って勝ち過ぎるのは禁物。40歳まではライバルに勝とうと励み、40歳を過ぎたら負けないことを心がける。強力なライバルは、追い込んだら工夫して優位な体制を整えてから攻めるようにし、先々の展開まで考え、後々の勝ちにつながる細かい心配りを怠らないことだ」
油断ならぬ信玄の裏切りで開戦
三方ヶ原の戦いは、18年前(1554〈天文23〉)年に結ばれた「甲相駿三国同盟」が信玄の裏切りによって破綻したのが原因だった。甲相駿は「こうそうすん」と読み、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元が、互いの息子や娘を結婚させることで成立した不可侵条約である。
義元の娘は信玄の嫡男(義信。のち廃嫡)と結婚、信玄の娘は氏康の息子(氏政)と結婚、氏康の娘は義元の息子(氏真)と結婚という図式だ。3者を結び付けた仲介者は、今川家の軍師の僧雪斎。そのとき家康は今川家の人質になって5年目、13歳。元服して松平元康と名乗る前年の出来事だ。
一方、信長は、わが子同然に大切に育ててきた養女(妹婿の娘)を信玄の息子(勝頼)に嫁がせたが、31歳家康と52歳信玄の動きはどうだったろうか。
信玄は、信長と同盟関係にある家康にも接近し、1568(永禄11)年2月に起請文を交わすと、12月には今川領だった駿遠両国(駿河と遠江)を分割し、「大井川を境界とし、以東の駿河は信玄の領土、以西の遠江は家康の領土」とする約束を交わし、これを後ろ盾として信玄は12月6日に甲府を進発、迎撃する義元の遺児氏真の今川軍と戦って勝利した。