そんな信玄を家康は尊敬する一方で、「油断のならない相手」と警戒してもいた。案の定、1569(永禄12)年5月上旬、家康が大井川のほとりを検視中、信玄の重臣が侵入してきた。「約束違背」と苦言を呈すると信玄は詫びを入れたが、どこまで本心かは理解できかね、同盟を破棄して謙信に接近、同盟を結んだ。
信長の「籠城論」を拒み、「野戦強行」で敗北
信玄が支配する甲州は、東を今川、西を信長、北を上杉、そして南は家康に囲まれていた。上洛の野望に燃える信玄が、その途上の三方ヶ原で家康と干戈(かんか)を交えるべく、南をめざして甲州を発ったのは1572(元亀3)年10月3日だった。
三方ヶ原は、浜松城の北方約1キロメートルのところに広がる台地である。信玄軍は、その台地の南方を流れる天竜川を背にして「魚鱗の陣」(魚の鱗のように密集した形)を敷き、家康は北方の犀ヶ崖(さいががけ)を背にして「鶴翼の陣」(鶴が翼を広げた形)で対峙した。
犀ヶ崖は、水で浸食されたⅤ字型の断崖絶壁で、今は深さ13メートル、幅30メートル、長さ116メートルだが、当時はもっと巨大で、深さ40メートル、幅50メートルの亀裂が東西約2キロメートルにわたって続き、「賽(さい)の河原」の賽を連想させる不気味なものだった。
信玄の軍勢は、武田軍2万5000に北条氏政の援軍2000、重臣山縣昌景の別動隊5000で、合計3万5000。
対する家康の軍勢は、徳川軍8000に信長の援軍3000で、合計1万1000。
圧倒的大差がついており、まともに正面衝突して戦えば、勝敗は明らかだった。
信玄は、家康を野戦へと誘い出す巧妙な策を講じた。秋葉街道を南下して浜松城に進むと見せかけて、犀ヶ崖の北方の追分で進路を変更、三方ヶ原へと向かったのだ。
決戦前夜に浜松城で開かれた軍議では、家臣らは「籠城論」を主張し、信長の重臣の佐久間信盛、滝川一益らも信長の忠告「野戦は避けられよ」を繰り返して家康を諫めた。
「信玄の真の狙いは上洛にある。城攻めをすれば2、3週間はかかる。そんな余裕はないはず。籠城すればうまくやり過ごせるが、3万5000もの大軍相手に野戦を挑めば、たちどころに負けてしまう。そんな戦いを殿はなぜやろうとされるのか」
家康は、かたくなに「野戦強行」を展開する理由を、こう語った。
「籠城戦を選んだりしたら、世間は、わしのことを枕元を武田勢に踏み越されたのに起き上がりもしなかった腰抜け呼ばわりするだろう。『たとえ相手がどんなに大軍であろうとも、わが城下を踏み散らかされて黙って見過ごしてはならぬ、負け戦とわかっていても戦え』が、わが家法の教えである」
そこまで言われては誰も逆らえず、3倍以上の大敵との野戦に臨んだのだが、信玄にしてみれば、家康の決断は〝願ったり叶ったり〟だった。