城に戻るなり、切り替え采配
城門をくぐって下馬すると、寄ってきた家老が鞍にある異物をみて笑った。
「殿、赤子のように脱糞なさっておられますぞ」
家康は、恐怖のあまり、失禁どころか脱糞までしていたことが恥ずかしく、「いや、それは味噌じゃ」
だが家康は、並の人間ではなく、のちに天下人となる大器。城に入るや否や、一気に冷静沈着な家康に戻った。そのとたん、家康の頭をよぎったのは『三国志』に出てくる「空城の計」という奇策をまねる秘策だった。
「城内にも城門にも篝火(かがりび)を焚き、開門するのじゃ」
その狙いはズバリと当り、追撃してきた敵勢は「何か仕掛けがあるに違いない」と勘繰って城門前で二の足を踏んだ。その隙に背後・側面から襲撃し、武田勢を退却させた。
家康は、若さに任せて猪突猛進するだけでは勝利を収められないことを痛感し、「やられっぱなしでは終われぬ。せめて一矢報わねば、なめられる」と、その夜、三方ヶ原で野営している武田軍に夜襲をかけ、逃げ惑った多数の兵を犀ヶ淵へ転落させた。
家康は、その日のことを忘れまいとして、しかめっ面の何とも情ない顔つきをした肖像画を描かせたという。これが今に残る「しかみ像」である。
誰の人生の前途にも思いもよらぬ落とし穴が待ち受けている。そこまで家康を追い詰めた信玄だったが、上洛途上で重病となり、引き返す途中で死んだ。
家康は、〝生涯最悪の大惨敗〟を喫した三方ヶ原の戦いから次の教訓を得た。
「勝つことばかり知りて、負くることを知らざれば、害その身にいたる」
そして、迷うことなく信玄流の軍法を継承したのである。
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