2024年12月22日(日)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年2月25日

 「荒天準備!」

 井深大と並ぶソニーの創業者盛田昭夫は、経営に役立つ箴言(しんげん)をいくつも残したが、かつて同社社員だった筆者が脳天に落雷を受けたような衝撃を感じたのは、この言葉だった。企業業績が悪化しそうな時期ではなく、好業績で何の心配もないときに「荒天準備!」といったからだ。「危機管理」とはこういうことをいうのだと思い知らされた瞬間だった。

若き日の家康。22歳にして最大の難関が訪れていた(橋本明己/アフロ)

 盛田は、戦時中、海軍将校だったから上記の専門言葉を使ったのだが、山の天気同様、海の天気も突然変わることがよくある。企業の業績にしても同様で、絶好調だからといって大船に乗った気分で安心したりせず、「いつなんどき、雲ひとつない晴天が急変して嵐に襲われるかわからない」と常に心を引き締め、備えを万全にしておかないといけない。盛田の「荒天準備!」はそういう教えだった。

 「荒天準備!」は、家康にもいえた。

 家康は、桶狭間の戦いで今川義元が戦死したことで、19歳にして足かけ13年にも及ぶ〝忍耐一筋の人質生活〟から放免され、21歳で信長と軍事同盟を結び、22歳の7月には元康から家康へと改名、順風満帆かと思えた。

 だが、好事魔多し。改名からわずか2カ月後、家康は「三河一向一揆」という大嵐に見舞われ、危機的状況に直面するのだ。1563(永禄6)年9月のことだった。

信長も手を焼いた一向一揆の洗礼

 一向一揆とは、「鎌倉中期に親鸞が開いた一向宗(浄土真宗本願寺派)の門徒が、守護大名や戦国大名の支配に反旗を翻した一揆」で、最初に起こったのは、三河一向一揆から遡ること約1世紀、1465(寛正6)年のことで、以後、近畿・東海・北陸などで起こるが、それがどんなに厄介なものだったかは、闘争期間の長さからも推測できよう。

1488~1580年 加賀一向一揆 富樫政親(とがしまさちか)

1563~64年 三河一向一揆 家康

1570~74年 長島一向一揆 信長

1570~80年 石山合戦   信長

 一向宗が勢力を急拡大するのは室町時代、本願寺8世となる蓮如(1415~99年)の代である。京都を追われた蓮如が1471(文明3)年に加賀と越前の境にある吉崎を訪れて布教の拠点としたのが、そもそもの始まりということになる。

 信長は、さんざん手を焼かされた。石山本願寺と戦った一揆は「石山合戦」と呼ばれ、三河一向一揆が終結した6年後の1570(元亀元)年から80(天正8)年まで11年も続いた。本願寺の法王は代替わりしており、11代顕如だった。

 命知らずの宗徒たちは、各地から摂津国の本願寺に集結し、旗印や笠験(かさじるし)に「進者(すすめば)往生極楽、退者(しりぞけば)旡間(むげん)地獄」といった物騒な標語を書いて、持久戦に突入。困り果てた信長は、正親町天皇に仲介を依頼し、ようやく和睦にこぎつけたほどだった。

 では、家康はどうだったか。


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