2024年4月27日(土)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年2月25日

 〝家康最初の危機にして最大の難関〟となった三河一向一揆には、宗徒以外に家康の家臣や各地から集まってきた浪人らもいて、総勢1万人ともいわれている。うち、一揆側に走った家康の家臣は、『寛成重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)によれば800余人に達した。

 その人数は当時の家臣団の半数に近く、そのなかには「上様か将監(しょうげん)様か」(『三河物語』)とまでいわれた〝腹心中の腹心〟もいた。筆頭家老で上野城主の酒井将監忠尚(ただなお)である。だが、あろうことか、酒井は今川に通じており、裏で一揆を煽ったのだから〝信心を隠れ蓑にした下剋上〟さながらだった。

 一族の者まで一揆に加わっていた。松平家次(桜井松平家3代目当主)、松平昌久(大草松平家4代目当主)らである。

 大勢の家臣に裏切られた家康は、槍や長刀(なぎなた)を手にして戦うこともしばしばだったが、1564(永禄7)年1月11日の「上和田(かみわだ)の合戦」で「あわや」の場面に遭遇する。鉄砲で狙い撃たれたのだ。

 とっさに前に立ちふさがった家臣が、身代わりとなって胸を撃ち抜かれ、死んでしまった。城に戻って家康が武具をはずすと、弾丸が2発、転げ落ちた。九死に一生とは、このことだ。

 そうやって命がけで戦いながら、家康は、「どうすれば一日も早く一揆を終結させることができるか」と考え続け、「講和こそが最善の策ではないか」との結論に至った。

忍耐と温情の家康

 話が前後するが、三河一向一揆はどうして勃発したのか。

 家康が城砦を築くように命じたところ、現場の指揮に当たった家臣菅沼定顕(さだあき)が「不足する兵糧米を寺から掠め取ろう」と安易な発想をし、一向宗の上宮寺という大寺の庭に干してあった籾(もみ)を略奪したことが、国を揺るがす戦争へと発展するのだ。

 同寺は、既得の治外法権「守護不入(しゅごふにゅう)」を蹂躙されたことへの憤りもあって、「3ヶ寺」と呼ばれて一向宗の指導寺となっている勝鬘寺(しょうまんじ)と本証寺(ほんしょうじ)にも声をかけて対策を協議し、城砦を襲って力づくで奪回した。報告を受けた家康は「寺の狼藉(ろうぜき)は、まかりならぬ」と怒り、戦いの火蓋が切られた。

 一揆は内乱であり、国力を消耗するだけだが、他国から見れば願ってもないこと。そういう愚かな争いはすべきではない、平和的に解決しようと家康は考え、本願寺派の僧を交渉に向かわせたが、寺側は問答無用と僧を斬殺したので、武力衝突となったのだ。

 1563(永禄6)年9月に戦端が開かれると、一揆側の旗頭となった酒井将監は上野城に立て籠った。

 家康は、上野城の北東1キロメートルにある隣松寺に本陣を構えて猛攻撃を開始、2月に城を攻め落とすと、次の「3ヵ条の講和条件」を敵側に打診した。

 一、今般の一揆に加担した諸侍の本領は安堵する

 一、道場・僧侶は、以前のように戻す

 一、一揆を起こした張本人(首謀者)の命は助ける

 これらが受け入れられたことで、一揆は終結した。信長が長島一向一揆に4年もの歳月を費やしたのに対し、家康はわずか5ヵ月で一揆を片付けたのである。

 『名将言行録』によると、秀吉は、「信長は剛が柔に勝つことは知っておられたが、柔が剛を制することはご存知なかった。人としての器が狭小だったのだ」と厳しく評したが、家康については「日本に肩を並べる武辺者はなし」「才は人にすぐれ、勇は古人(いにしえびと)の誰よりもまさっている」と褒めちぎっている。

 だが、才能も勇気もある優れた武将というだけでは天下人失格だ。秀吉がいうように、為政者としての器の大きさも不可欠である。


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