その点、家康は、戦いが終われば敵も味方もなく、逆心して一揆側に走った家臣の復帰を許す寛大さを見せたが、その一方で為政者には「腹芸」が必要なことにも目覚めていた。
前記の3カ条は一揆を終わらせるための方便であって、すべてを守ったわけではなかったのだ。一揆に加担した家臣の本領は没収しないという条件は守ったが、寺や僧侶はそのままとはせず、僧には宗旨替えを命じ、寺々は打ち壊させた。それを見て、一揆に加担した家臣らは「殺されるのではないか」と脅え、逃走した。逃げれば殺さずに済む。そこまで計算していた。
寝返った家臣たちのその後
〝親今川派の敗軍の将〟酒井将監も逃げた。駿河へ落ちたとも、猿投山(さなげやま)の麓の迫(はさま)村へ逃れ、翌年没したともいうが、いずれにせよ、自業自得というしかない。
足利氏の分家の吉良義昭は、一揆以前にも家康と何度か戦っていたこともあって、生き残れないと判断したようで、近江へ逃走後、摂津で没したという。
一族では、松平家次はすぐに降参して許されたが、それを見て「自分も」と降参した荒川義弘は、幡豆(はず)郡(尾西市南東部)の山城に籠った一揆軍の副将だったが、家康の妹婿(異腹妹の市場姫の夫)という特殊な立場上、許されず、浪人となって上方へ流れ、河内で病死という末路をたどった。
特記すべきは、のちに〝家康の無二の相談役〟となる本多正信のその後である。正信は、一揆では酒井将監の上野城に籠ったが、敗戦で居場所を失い、出奔した。これが27歳のときだが、大久保忠世(彦左衛門の長兄)のとりなしで4年後に許され、再び家臣に復帰できたので、〝返り新参(しんざん)〟と呼ばれた。
正信は、本能寺の変の直後の「神君伊賀越え」や秀吉の「小田原征伐」などにも貢献し、家康が大御所になると2代将軍秀忠の相談役も務めている。
興味深いのは、夏目漱石の先祖とされる夏目吉信だ。一揆軍に参加して捕まって処刑されそうになったが、家康の温情で助命された。
その恩を吉信は、9年後の「三方ヶ原の戦い」で返す。家康の身がわりとなって「忠死」するのだ。詳細は次回に記すので、ここでは、家康の温情で死を免れた件(くだり)のみを紹介する。
一揆軍に加わった六栗(むつぐり)城の城主夏目吉信は、深溝(ふかみぞ)城主の松平伊惟(これただ)の攻撃を受けて捕縛された。伊忠は家康に使いを出して「吉信の処分をどうすべきか」を尋ねた。家康の返答は、こうだった。
「夏目は籠の鳥も同然。生かすも殺すも貴公の意のままだ。不憫と思うなら一命を救ってやればよい」
伊忠は、家康の温かい心根が痛いほどわかり、ただちに吉信を放免する。
一向一揆を鎮圧して自信を深めた家康は、勢いに乗って東三河に攻め入り、今川家の重要拠点である吉田城(豊橋市)を陥落させ、ついに三河全土を統一した。64(永禄7)年、家康23歳の6月のことで、その偉業は「忍耐力」を抜きにして語ることはできない。
戦国の三英傑の性格を比較するとき、「冷酷非情の信長」「人たらしの秀吉」に対して、「温情の家康」といえるが、それは、織田家と今川家の人質として6歳から13年間もさまざまな艱難辛苦に耐え続けたことで培われたのである。