2023年2月2日(木)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年1月9日

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城島明彦 (じょうじま・ あきひこ)

作家

昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。東宝を経て、ソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから、『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』『広報がダメだから社長が謝罪会見をする!』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に 『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)、古典の現代語抄訳に『超約版 方丈記』(ウェッジ)がある。

 あなたは「成功体験重視型」か「失敗体験重視型」か、「成功体験・失敗体験ミックス型」か、「いずれでもない」のどれと思うか。

 戦国の三英傑である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康でいうなら、秀吉が成功体験重視で、うまくいったことは二度、三度と繰り返した。一夜にして城を築いたと見せかけて敵を威嚇した「墨(すの)俣(また)一夜城」が好例。秀吉は小田原攻めでも臆することなく同じことをやってのけた。「石垣山一夜城」がそれだ。

若き日の織田信長像。この時から家康と信長は顔見知りだったと言われている(三木光/アフロ)

 家康は、失敗体験重視だった。三方ヶ原の戦いで、まんまと武田信玄の策略にはまり、城からおびき出されて野戦に走って惨敗した失敗体験を、信玄の息子勝頼との戦いに活かし、そっくり同じことをやって武田氏を滅ぼした。

 「自分が嫌なら人も嫌だろう」というわけだが、その一方で、秀吉が整えた体制を継承発展させるなど、〝人の成功体験〟を工夫しながら巧みに取り込んでもいる。「士農工商」の身分制は、秀吉の「刀狩りによる兵農分離」の発展形である。

 秀吉は崇拝する信長を手本にしたが、家康はその上を行って信長と秀吉の両者を手本にしたからこそ265年も続いた江戸幕府の礎を築けた。

 では、信長はどうか。信長の失敗体験の代表例は、若気の至りの〝うつけ者時代〟に、父の葬儀で香を摑んで位牌に投げつけるという礼儀知らずな愚挙をしでかし、教育係の家老平手政秀(ひらてまさひで)を諫死(かんし、諫めるために自決)へと追いやった事件だろう。これにはさすがの信長も相当こたえたようで、一時は改心したものの、やがてまた元の奔放不羈(ふき)な言動に戻ったので、失敗体験重視型ではなかった。

 それなら成功体験重視型かというと、そうでもなかった。

 桶狭間の戦いでは奇襲戦法で、小が大を倒す大殊勲を挙げたにもかかわらず、武田勝頼が相手の長篠の戦ではその成功体験を封印、新兵器の鉄砲3段撃ちで圧倒的勝利を収めたが、以後、その手を繰り返すことはなく、楽市楽座や関所撤廃が示すように成功体験型でも失敗体験型でもなく、天才だからこそできた〝変幻の独創型〟とでも呼ぶしかない。

〝馬が合った義兄弟〟家康と信長の35年

 さて、ここからは家康と信長の出会いと別れだが、松平家と織田家は、家康の父広忠、信長の父信秀の代までは犬猿の仲で、松平家の居城だった安城城(安祥城)〈愛知県安城市〉をめぐって、4~5年間隔で3次にわたる激しい争奪戦を展開し、信長の提案を家康が受け入れた「清州同盟」が実現するまで両家は敵味方に分かれていた。

 両家が同盟の絆で強く結ばれたのは「桶狭間の戦い」から2年後の1562(永禄5)年だから、この合戦が2人を結び付けたといってよい。

 以後、信長が本能寺で横死する1582(天正10)年まで、20年の長きにわたって2人の仲は続いた。

 性格も考え方も全く異なるからこそ、うまくいったのかもしれない2人の出会いの時期については、「家康が竹千代と呼ばれていた6歳のとき(1547〈天文16〉年)に、人質として金で織田家に売られた頃が最初ではないか」と推定される。まだるっこしい言い方になるが、裏付ける史料がないので、そういうしかない。人質に取られた時点から数えると、実に35年もの歳月にもなるのだから〝馬が合った義兄弟〟といえるだろう。


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