2024年12月4日(水)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年9月20日

 織田信長のブランド戦略と道路政策にまつわるマネー術が炸裂していた天正3年(1575年)は、別の観点でも信長のエポックとなる時期だった。というか、こちらの方が注目されている。

 そう、みんな大好き「長篠の戦い」!

 武田勝頼の軍団と織田・徳川連合軍が激突した世紀の合戦がおこなわれたのが、この年5月21日のことだった。

 今回はこの長篠の戦いに関するマネー事情をチェックしてみよう。とにかくね、「長篠の戦い」「長篠の戦い」と簡単に言うけど、けっこうナガいはなシノ合戦なのですよ、これが。

長篠の戦い決戦地・設楽原を流れる連吾川(筆者撮影)

なぜ、信玄は最期を迎えそうな中、野田城攻めに向かったのか

 というわけで、今回の話は敵方の武田家から始まる。長篠の戦いで織田信長に挑んだのは武田勝頼だが、それより以前、父親の信玄が長篠に濃厚に絡んでいるからだ。

「甲斐の虎」と恐れられ信長からも一目おかれた信玄が世を去ったのは、長篠の戦いからさかのぼること2年前、元亀4年(1573年)4月12日のことだった。

三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を撃破してからわずかに4カ月。徳川方の三河国野田城(現在の愛知県新城市豊島本城)を包囲攻撃中に発病し、甲斐へ戻る途中で彼は最期を迎える。

 さぁここで問題なのが、なぜ三方ヶ原の戦いで大勝利を収めた信玄が、その後野田城攻めに向かい、そこで倒れたのか、という点だ。いや病気だったから、じゃない。場所の問題だ。三河国野田城。地図を見ると、これは現在の愛知県新城市豊島本城という土地にあって、そこから豊川の谷伝いに北東へ向かうと長篠城に至る。

 その距離、11キロ程度。かつて連歌師の宗牧が訪れて「目を驚かせた」と記した(『東国紀行』)ほどには大きくもなく、城兵も500人に満たなかったという野田城。その城を信玄は3万の大軍勢で囲み、1カ月かけて干し上げ降伏させるのだが、なぜそんな手間暇をかけたのだろう?徳川家康を苦しめるのなら、南の吉田城や西の岡崎城まで部隊を分散して荒らし回らせた方が話が早い。

 それをしなかったということは、信玄にとってそれ以上のメリットがこのエリアにあったということだ。


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