橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年5月6日

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橋場日月 (はしば あきら)

作家

1962年大阪府生まれ。史料群から独自の視点で新しい可能性を発掘し、日本史を見直すことに努める歴史作家。月刊誌「Wedge」で「戦国武将のマネー術」の連載をしてきた。著書は『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』 (講談社)等多数。

 月刊『Wedge』に連載していた「戦国武将のマネー術」が4年8カ月で終了したのが2カ月前。締め切りのプレッシャーが無くなるよりルーチン変更のストレスの方が大きいことに気づくのに、それほど時間はかからなかった(笑)。

 例えば中国地方の覇者・毛利元就は幼いころにしつけられてから晩年まで、毎朝念仏を唱えることを欠かさなかったという。これも、信仰心の厚さもさることながら、ルーチンが変わることで体のリズムが狂い、健康を損なうことを恐れていたのだろう。

 話が逸れたが、そういったところに「まだ書き残したネタがある」とお願いしていたウェブ版のゴーサインをいただいた。心理的にも体調的にも、非常にありがたいのである。また、連載終了を惜しんでくださった読者の方の有り難いお声にも応えることができるのが何より嬉しい!

 というわけで、ウェブ版初回のテーマを何にするか。今まで取りあげて来なかった武将も多くいるし、武将個人ではなく合戦にまつわるマネーネタなども取りあげたい。心は千々に乱れるわけだが、ここはやはり、初心に帰ることこそ大切。基本に戻って誌上連載でも初回にフィーチャーした織田信長公に、再度ご登場いただこうと思う。

信長生誕地と考えられる勝幡城跡(筆者撮影、以下同)

マネーと武器の両方で恵まれた環境にあった信長

 さて、織田信長のトレードマークといえば、何と言っても「永楽銭」の旗印。永楽銭は永楽通宝という15世紀初めに中国・明で鋳造された貨幣で、日本に輸入されて商いの決済に使われた。そんな世の中に登場した信長は、まさにマネーの申し子。大資本を投下して物量で敵を圧倒するというまったく新しい戦略を打ち出して、天下統一に突き進んだ。

 信長の場合、彼の祖父・信定が津島(現在の愛知県津島市・津島神社の門前港町)、父・信秀が熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区・熱田神宮の門前港町)と、2代にわたって大きな商業都市に顔が利いたことが大きかった。その商業利益の上前をはねて軍資金にするわけだが、実は、メリットはそれだけではない。

 特に津島についてなのだが、ここは鋳鉄の製造・輸出が盛んな土地で、遠く関東にまでその製品が届けられていた。

 鋳鉄は鍛鉄より重くて弱いが、大量生産には向いている。信長が半農半士ではなく、常備軍団を整備していつでも戦いができる体制を整えたのはよく知られているが、その武具にも大量生産の鋳鉄が惜しげも無く使用できた。マネーと武器、その両方で信長は恵まれた環境にあったはずだ。

 ところが。

 信長がまだ元服前で吉法師と名乗っていたころについて『信長公記』はこう記している。

 「御不弁限りなし」

 不弁というのは現代でいう不便とは少しニュアンスが違ってスバリ〝貧乏、という意味だ。

 津島と熱田を支配するセレブ・織田家の御曹司ともあろうものが貧乏とは、これは一体全体どういうことだろう。

 いくらお金が入って来ても貧乏ということは、出て行く方が多いからに他ならない。この頃、彼の父・信秀は尾張の守護代(守護大名の補佐役)の家臣という低い身分にも関わらず美濃や三河に兵を出し、斎藤道三や松平広忠と争っていた。特に一時は三河一国を「管領(かんりょう=領有)」したという(本成寺文書)。

 国持ち大名どころか、その家来のそのまた家来という身分でしかない信秀だから、そんな人的リソースを持ち合わせているわけがない。彼はそのため「国中憑み(たのみ)勢をなされ」(同書)とあるように、守護代・織田家など尾張の諸勢力の武士たちに助っ人を頼んで寄せ集めの軍勢をつくり、それを率いて北へ東へとトコトコ攻め込んで行たのだが、助っ人もボランティアで戦場へおもむくわけではない。報酬なしで集まってくる武士など、いないのである(ま、少々は義理堅い信秀シンパもいたかも知れないが)。

 特に尾張国は江戸初期の『新人国記』に「国民功才(住民は才走っている)」と評されるほど計算高いと捉えられていたところ。見返りが無ければ誰も協力してくれない。まずは目の前に札束の山を積んでやらなければ人は動かないから、信秀は津島や熱田からのアガリ(運上金)をそれにつぎ込んだ。

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