2024年7月16日(火)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2021年5月6日

信長が貧乏だった背景

 それだけではない。朝廷や幕府にも献金して箔をつけるのも、兵を集めるためには欠かせない投資だった。伊勢神宮の仮殿造営の費用700貫を提供して三河守の官途を手に入れたのはもちろん三河攻め用で、他に朝廷に4000貫(3億5000万円)を贈っている。

 さりながら。まずいことに、天文13年(1544年)信秀は美濃で斎藤道三に散々な目に遭わされてしまう。

 「木曽川で敵2000~3000人を溺れ死にさせてやった。信秀はわずか6、7人の供廻りだけで尾張へ逃げ帰った」

 これは道三が味方に送った書状の一部だが、稲葉山城(後の岐阜城)下・加納口で信秀は壊滅的な敗北を喫したのだ。そのうえ、4年後には三河でも今川義元の軍師・太原雪斎に蹴散らされてしまう。一つ歯車が狂うと、次々に悪い賽の目が出るのはよくあることだ。あえて難しく言うと(笑)、「無卦」というやつ。

 大金をあちこちにばらまいておこなった合戦で連敗し、投資金を回収できなくなった信秀。信長が貧乏だった背景には、オヤジの戦略の失敗があった。

 もっとも、信秀ひとりに責めを負わせるのは少し気の毒かもしれない。彼の名誉のためにすこし弁護しておこう。当時の尾張、いや、日本全国がもう一つ大きな問題を抱えていた。

 それは肝心かなめの銭、つまり「マネー」そのもの。中国の明との貿易量が戦乱の影響で極端に減ってしまったのだ。15世紀には14回も派遣されていた公式の貿易船が、16世紀に入るとわずかに4回。永楽通宝など中国銭の輸入量も当然ながら単純計算で3分の1程度に減少したことになる。

 いきおい、市場では使い古して欠けたりすり減ったり、あるいは模造で造られた私鋳銭などのいわゆる「鐚銭(びたせん、びたぜに)」の比率が多くなり、人々は品質の高い良銭を甕(かめ)に詰めて埋めるなど資産として死蔵した。今でも時折、地中から発掘されることがあるのはそうした銭だ。「悪貨は良貨を駆逐する」という「グレシャムの法則」そのままの動きで、悪貨ばかりが流通するようになれば銭の価値は暴落するから、ますます取引に用いる銭貨の量は不足していく。

 この負のスパイラルによって行き着いたのが、銭による決済ではなく米や布などによる現物決済。簡単に言えば物々交換だ。

 ところが、ことはそう単純には運ばない。

 現物は銭よりもかさばり重さもあるから、輸送のコストがかかる。大型取引にも対応しづらい。

 支配者の側にしても、取引の利益に課税しても現物を持って来られた日にはそれを売却処分する手間も暇もかかってしょうがない。

 現物決済については永禄12年(1569年)になっても信長が禁止令を出しているくらいだから、信秀にとっての不幸は、その晩年に銭決済の取引が停滞し、商業活動が混乱して津島や熱田からの実入りが激減したことだった。タマ(現金)が無ければ人は動かない。負けはこむわ蔵に金は入って来ないわ。これでは、どうしようもないのである。

 そして天文21年(1552年。諸説あり)3月3日、信秀は病気で41年の生涯を閉じる。ここで信長はあることを実行するのだ。実は、それこそが今回の目玉!。


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