銭ファースト政策
『信長公記』によれば信長は、信秀が那古野城の南に建立していた織田家の菩提寺・万松寺の元住職・大雲永瑞(信秀の叔父)に父の戒名を授けてもらった。その後の文章を見てみよう。
「銭施行(ぜにせぎょう)をひかせられ、国中の僧衆集(あつまり)て生便敷(おびただしき)御弔(おとむらい)なり。折節関東上下(のぼりくだり)の会下僧(えげそう)達余多(あまた)これあり。僧衆三百人ばかりこれあり」
<銭施行を引かれ、尾張の国中の僧たちが多数集まって葬式をおこなった。ちょうど関東と上方を行き来するため尾張を通行していた修行僧・学問僧たちも多く、300人ほどがいた>
万松寺に国内だけでなく旅の僧までが集められ、坊主300人による壮大な信秀の葬式が挙行されたのだ。この葬式で、信長は父の位牌に向かって抹香をつかみ投げるというあまりにも有名な劇的シーンを演じるのだが、ここでそれは後回しだ。いったい何故か。「マネー術」のテーマにもっとふさわしい一文があるではないか。
「銭施行を引かれた」
銭施行というのは、僧や貧窮者のために銭貨を施し与える行為を指す。
万松寺、そして信秀に戒名を授けた大雲永瑞はこの場合施しを受ける側だから、他に実行者がいる。「引かれた」というのは尊敬語なので、この場合の主語は信長その人と解釈できる。う~ん、日本語難しい。古文鬼ムズ。
貧乏だった信長が、父の葬儀の場であえて僧たちに貴重な銭を配り与えたことは何を意味するのだろう? 実は、そこに彼のメッセージが隠されていたのだ。
ことごとく足止めされ万松寺に集められた旅の僧たち。彼らは信長の銭を携えながら旅を再開し、各地で尾張での出来事を語り広める。その時、信長の銭は「織田家は銭を商業の主役に戻す」という強烈なメッセージ(教書)となる。
のち、宣教師フロイスは信長に直接面談した印象を「非常に性急」と記している(『日本史』)。要は〝せっかち〟だ。もし彼が現代に生きていれば、「のろのろとコインやお札を数えて決済なんかとろくさくてやっとれんでよ。キャッシュレス決済しか勝たんのだわ!」と叫び、「価値が不安定で通貨として信用できないなら、安定する仕組みを作ればええだけの話だがや」と仮想通貨のインフラ整備に巨額投資することだろう。
そんな信長だから、悠長でコスト高で経済活動を阻害する現物決済など我慢できなかった。「銭こそが織田家がふたたび強さを取り戻すための唯一の方策だで」と、なけなしの銭を投入して「信長ドクトリン(基本原則)」を宣言したのだ。
葬儀に参列した筑紫(九州)の僧は信長が位牌に抹香を投げつけるのを見ても「あれこそ国は持つ人よ(信長こそ国持ち大名の器だ」と評した(同書)。彼は信長のメッセージを正しく理解し、抹香は銭貨の衰退になすすべ無く逝った父の路線を否定するものだと看破していたのだろう。
永楽銭の旗印は、何も織田家の専売特許ではない。尾張緒川・三河刈谷にまたがる大勢力、水野家も早くから永楽銭の紋様を使用していたというが、信長は永楽銭の復権を目指すというまったく新しい形でこの旗印を掲げ、戦国のマネー戦争に乗り出していくのである。
では、信長はどのようにしてこの銭ファースト政策を実現して行くのか。
まず、徹底した低コスト体質への転換だ。織田家をスリム化してムダな支出を抑えなければならない。
次に、信長の権力を強める。中央集権化して土地や商業の収益を信長が独占する体制を整えるのだ。
そして最後が、マーケットの創出と販路の確保。
このひとつひとつについて具体的に解説していきたいが、今回はここまで。
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