今年で105回目を迎える全国高校野球選手権大会は6月17日の沖縄大会を皮切りに、全国47都道府県で地方大会が始まるが、プロ野球中日ドラゴンズの立浪和義監督や埼玉西武ライオンズの松井稼頭央監督、大リーグミネソタ・ツインズの前田健太投手ら数多くの名選手を生んだ名門、PL学園が活動を休止し、表舞台から姿を消して7年になる。今回紹介するのは、甲子園春夏通算96勝、全国制覇7回の名門野球部の歩みをたどり、謎に包まれた突然の廃部に至るまでを克明な取材でたどった『永遠のPL学園 60年目のゲームセット』(柳川悠二著、2017年、小学館)だ。
著者の柳川悠二氏はスポーツ全般にわたり幅広く執筆するノンフィクションライター。学園の創立と野球部の創設から全国屈指の野球強豪校として知られるまでの歴史をたどる一方、最後の野球部員となった第62期生12人の2年半にわたる活動に密着し、先輩の栄光を継承できない苦しい胸の内に迫る。
すでに現代史の1頁を飾るまでになったPL学園野球部はなぜ廃部に追い込まれたのか。高校野球の戦後史の一断面に切り込んだ名著だ。
「ひとのみち教団」がなぜ高校野球?
PL教団と学園の歴史を駆け足で振り返ってみよう。アルファベットの名称からして、キリスト教系の宗教団体と思われがちだが、神道系の新宗教「ひとのみち教団」が母体となっている。
<ひとのみち教団とは、徳光大教会(正式名称は御嶽教徳光大教会)の教祖、金田徳光に師事した御木徳一が、金田の死後、解散した徳光大教会を再興し、1931年に立ち上げた宗教団体である>(同書41頁)。37年に教義が不敬罪にあたると弾圧を受け、解散となったが、戦後の46年、徳一の息子の御木徳近が「ひとのみち教団」を引き継ぎ、佐賀県鳥栖市で「PL教団」として再建する。
55年に教団本部を鳥栖市から大阪の富田林市に移し、その地に私立高校・PL学園が開校した。すぐに野球部ができたのだが、高野連の加盟が認められたのは56年で、その夏、初めて大阪大会に出場し、初戦の2回戦で府立池田高の7-5で勝った。これがPL学園の公式戦初勝利だった。
翌57年、開校3年目のPL学園は夏の大会で初戦敗退し、この年は0勝に終わった。これ以降、公式戦0勝というのは、野球部の休部が決まった2016年まで1度もなかった。
2代目教祖、御木徳近が野球好きで、野球部の強化にも影響を与えたのだが、徳近が野球好きになったいきさつが面白い。野球部第4代監督、井元(いのもと)俊秀の証言。
<「PL教団が富田林に本部を移す2年ほど前、PL教団も加盟していた新日本宗教団体連合会で、加盟団体による軟式野球対抗試合があったのです。(略)当時は立正佼成会が強くてね。なんとかライバル団体に勝てないかと考えた二代(徳近)は、全国のPLの教会を東北ブロック、中国ブロック、九州ブロックなどに大きく分け、それぞれ野球チームを作って、今度はPL教団内で親善試合を開催したのです。立正佼成会に勝つべく、まずはPL教団内における野球の活動を盛んにしようというのが二代の狙いでした。>
都市対抗野球大会にも出場した立正佼成会に対抗するため、PL教団として社会人野球チームを作った。<宗教団体の社会人野球チームがPL野球の出発点だったために、PL学園の野球部も「信仰」を色濃く打ち出したチームカラーに仕上がっていく。PL学園の野球部というと、首にぶら下げ、ユニホームの内側にしまわれた御守の「アミュレット」を試合中に幾度も握りしめて祈りをささげる姿が印象的だろう。80年代の黄金期、野球少年がこぞってマネをしたこの宗教儀式「おやしきり」は、草創期から60年後にいたるまで続いていた>(48頁)
祈りの中身はこうだ。「今から精一杯やらせていただきますから、練習で積み重ねた実力を十分に発揮できますように」ということだという。神様に「勝たせてください」と、お願いしているわけではないという。徳近は「みんなから必勝祈願されれば神様も、どちらを勝たせたらいいのか、困ってしまう。神様に拝んだら勝てるというのは迷信だ」と話していたという。