2022年12月7日(水)

スポーツ名著から読む現代史

2022年5月23日

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中島章隆 (なかじま・ふみたか)

元毎日新聞運動部長・論説委員

なかじま・ふみたか 1952年長野県生まれ。元毎日新聞運動部長・論説委員。現在は立教大講師、東京プロ野球記者OBクラブ理事。月刊政策情報誌「毎日フォーラム」で2009年から「スポーツを読む」を連載している。

 「今朝の大谷、どうだった?」が日本人のあいさつ代わりとなった。大リーグ・エンゼルスの二刀流、大谷翔平の活躍は、もはや日本人だけの関心事ではない。本場米国でも「野球の神様」ベーブ・ルースの再来として、いやそれ以上の選手として大谷の一投一打に熱い注目が集まっている。日本人として、これほどうれしいことはない。

今や大谷翔平の活躍に日本だけでなく、米国も目が離せなくなっている(AP/アフロ)

 野球というスポーツが日本に伝来してから2022年は150年の節目の年となる。150年の長い時間をかけて、ついに米国でも頂点を極める選手を日本から輩出できた。感慨深いものがある。

 これまでの日米野球交流を振り返るとき、一人の天才左腕投手の挑戦と挫折が正史から漏れかけていることを思わずにいられない。シーズン最多401奪三振の記録を持ち、オールスターゲームでの9者連続三振、日本シリーズでの無死満塁のピンチ脱出(いわゆる「江夏の21球」)など、今も多くの伝説とともに語られる江夏豊。その黄金の左腕が大リーグに挑戦したのは1985年の春だ。米アリゾナ州で春季キャンプを張るミルウォーキー・ブルワーズの練習に参加、大リーグ昇格への最終テストまで残りながら、あと一歩のところで夢は破れた。

 TBSテレビのディレクターとしてアリゾナのキャンプに泊まり込み、江夏の挑戦の軌跡を追った高橋正嘉の『36歳のグリーンボーイ』(1985年、大和書房)はすでに絶版となっているが、沖縄在住のライター、松永多佳倫が出した『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(2015年、KADOKAWA)とともに、江夏の挑戦を改めて追体験してみたい。

日本球界の「異端児」の挑戦

 1967年にドラフト1位で阪神に入団、その後、南海(現ソフトバンク)、広島、日本ハム、西武と5球団を渡り歩き、通算206勝158敗193セーブ。江夏が18年間のプロ生活で日本球界に残した実績は申し分ない。阪神時代は日本一の左腕エースとして活躍し、南海に移籍してからは救援投手の存在意義を決定的に高め、広島、日本ハムでは「優勝請負人」と呼ばれる存在になった。

『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)

 輝かしい実績を挙げればきりがないが、その一方で、チームの主流に背を向けた「一匹狼」「異端児」としての印象も強い。日本球界の最後のキャリアが広岡達朗監督率いる西武だったことは、江夏にとっては不幸だったのかもしれない。

 広岡監督の徹底した「管理野球」になじめなかった江夏は、シーズン途中の7月に二軍行きを命じられ、そのままシーズン終了。江夏を獲得しようという球団はなく、現役引退しか道は残されていなかった。

 西武球団は引退する江夏のために「引退試合」はしなかった。代わりに雑誌「Number」編集部主催で多摩市の一本杉公園野球場で「たった一人の引退式」が行われた。その間、日米の野球関係者から「大リーグに挑戦してみないか」という話が江夏に持ち掛けられた。

 その時点で日本人大リーガーといえば、1964年からサンフランシスコ・ジャイアンツで2年間プレーした村上雅則ただ一人。ただし、村上の場合、南海ホークス(現ソフトバンク)から練習生としてジャイアンツの下部チームに加わって、メジャーに引き上げられたのであって、自分の意志で大リーグに挑戦した日本のプロ野球経験者はいなかった。

 <「なんでアメリカへ行ったかというと、完全燃焼したかったから。今の時代だったら、アメリカ以外にも韓国、台湾という選択肢があるけど、あの頃は日本かアメリカのどっちかしかなかったから。日本が嫌やったらアメリカへ行ってやるという素直な気持ちになれた」>(『善と悪』47頁)

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