江夏はオープン戦6試合に登板、最初の2試合はそれぞれ2イニングを投げ、無失点で切り抜けるが、3試合目のパドレス戦で、3Aから昇格した捕手に本塁打を打たれ、これが初失点となった。本塁打を打ったブルース・ボウチーは、後にパドレス、ジャイアンツを率いて3度ワールドシリーズを制した名監督だ。
パドレス戦での初失点を境に、急速に江夏は打ち込まれていく。4戦目のカブス戦で失策がらみで4失点。5戦目のアスレチックス戦も1本塁打を含む4安打で3失点。そうして迎えた4月2日のエンゼルス戦は、生き残りをかけた最終テストの場となった。
江夏は渡米直後の米テレビでのインタビューで、大リーグで対戦してみたい選手はいるかと尋ねられ、こう答えた。「私は日本で反逆児といわれた。アメリカで反逆児といわれているのが(エンゼルスのスーパースター)レジー・ジャクソンと聞いた。1度でいいから彼と対戦し、三振を取ってみたい」。そのジャクソンとの対戦が実現した。
2番手として登板、四回は無失点に抑えたが、五回はいきなり長短2連打で1点を失ったところでジャクソンが代打で登場。2球目、緩い変化球で空振りをとった後、外角低めのチェンジアップを中前に運ばれ、2イニングで2失点だった。翌朝、江夏は戦力外を通告された。
傲慢な江夏を変えた大リーグという舞台
2月21日のキャンプインから42日で江夏のメジャー挑戦は幕を閉じた。バンバーガー監督は日本の報道陣にこう説明したと著者は書き残している。
<「江夏はグッドピッチャーだ。ピッチングというものを知っている。コントロールもいいし、スピードに緩急もある。チャンスさえあれば、江夏は働くだろう。だが、そのチャンスを与えるのが難しい。1軍枠は限られている。江夏には欠点がある。年齢だ。同じ力量なら若い投手を選ぶ。36歳のルーキーというのは、やはり考えてしまう」>(同書94頁)
江夏はサンシティ市内のホテルで数人の日本人報道陣と同宿した。著者は、オープン戦での登板を重ねるたび、報道陣に対する江夏の態度が変わっていったと感じている。
<江夏は、ともかく必死に野球をやっていた。たぶん、去年西武でやっていた時よりも、一昨年日本ハムで野球をやっていた時よりも,球は速かっただろう。そのひたむきさが、江夏を変えていく。ブルワーズの中に積極的に入っていったのと同じように、日本の報道陣の中にも入っていったのである。マイペースという自分の固い殻を捨てた時、それはかたくなに自分を守る必要がなくなった時であったのだろう。>(同書133頁)
さらにこう分析する。<もし、江夏が日本にいる時と同じように反逆児であり、一匹狼であり、しかも、傲慢であり続けたら、江夏は1軍に残っていたように思えてならない><牙を持ち、周りの人間を傷つけても自我を通す。それが勝負の世界でスターたるための不可欠な条件であるのかもしれない。だが、江夏は、大リーグという厚い壁の前で、スターであるよりも前に、ひとりの人間に戻って行ってしまった。やさしく、素直に、初々しいルーキーのように。>(同書156頁)
〝異世界〟から〝目標〟に変えていた江夏の足跡
江夏の挑戦から10年後の1995年、近鉄(現オリックス)を飛び出した野茂英雄がドジャースに入団、日本人として2人目の大リーガーとなり、独特な「トルネード投法」で全米を沸かした。
当時の野茂は26歳。江夏より10歳も若い時点での挑戦だった。野茂の成功がイチローや松井秀喜の成功へとつながり、大谷翔平という大輪を咲かせるきっかけとなった。
江夏ほどの大投手ですら、ルーキーとして挑まなければならなかった大リーグの厚い壁。江夏の孤独な挑戦は実を結ばなかったが、遠い惑星のように感じた大リーグを、うまくすれば手が届く存在へと変え、10年後の野茂へとつなぐ、重要な布石となったのは間違いない。(文中敬称略)