2024年4月26日(金)

スポーツ名著から読む現代史

2023年5月27日

 スポーツの「目的」についても、徳近の考えは明瞭だった。

 <PL学園の野球部には、「PLの野球は世界平和に通ず」という「野球のみおしえ」というものがある。徳近が説いたその言葉を、井元はこう解説する。「二代には宗教団体がまず謳うべきは世界平和であるという思いがあった。『野球に限らずスポーツの目的は世界平和にある』と、直接言われたこともあります。人は武器を持って戦うのではなく、スポーツをもって戦うべきだ、と。それが結果として殺し合いを根絶し、平和をもたらし、スポーツによって人間を作り、スポーツによって強健な健康と精神を作ることにつながる。それが二代の考えでした」>(50頁)

絶頂期を築いたスカウト力

 PL学園野球部が全国屈指の強豪校としての地位を築いていくのは1960年に入ってからだ。井元が第4代目の野球部監督に就任し、62年のセンバツ大会で甲子園初出場を果たした。

 1回戦の高鍋、2回戦の高知を破り、準々決勝で松山商に敗れたものの、いきなりベスト8に進出した。同年夏も甲子園に出場し、初戦を突破。翌年のセンバツも3季連続甲子園出場を果たした。

 監督として十分に力を発揮した井元だったが、63年のセンバツ終了後、監督を辞任してスポーツ紙の記者に転身。約6年間、プロ野球担当の記者としてプロ球界に人脈を広げた上で再び教団に戻った。今度は徳近の側近として全国の教団支部を回る傍ら、中学野球の現場に足を運び、有望な生徒をPL学園野球部にスカウトして回った。

 第12代監督の鶴岡泰時代の76年、PL学園は夏の選手権で2度目の決勝に進出した。桜美林(東京)に延長戦の末、3-4で敗れた。だが、その年、PL学園には運命的な2人の1年生が入学していた。和歌山の中学大会で優勝し、県下一の投手と評判になった左腕・西田真次(現真二)と、大阪府堺市出身の捕手・木戸克彦だ。

 <姓名学を学んでいたという徳近は、西田と木戸の名を目にして、それまでにないほど目を輝かせた。このバッテリーなら全国制覇も夢ではない――そんな宗教的な直感が働いたという。それゆえ徳近の厳命を受けた井元も労を惜しまず、2人を熱心に勧誘した。>(64頁)

 徳近の直感は当たった。78年の夏の甲子園で、西田―木戸のバッテリーを中心にしたPLは、逆転に次ぐ逆転で勝ち上がり、高知商との決勝戦でも0-2で迎えた九回、一挙に3点を奪う劇的な逆転勝ちで悲願の初優勝を達成した。

 その後のPL学園の躍進は改めて説明するまでもない。とりわけ第13代監督、中村順司の時代には6度の全国制覇を含め通算58勝と圧倒的な強さを発揮、全国の高校野球ファンの心をつかんだ。

「鉄の掟」が生んだ不祥事

 だが、絶頂期の裏側では崩壊へとつながる芽も育っていた。<全国屈指の強豪へと成長していく過程において、いつしか野球部員の寮生活には次の不文律ができあがっていた。「3年神様、2年平民、1年奴隷」。入学・入寮したばかりの1年生は、主将の口からまずどの3年生の付き人になるかが発表される。付き人としての仕事は、同じ3年生の付き人を担当する2年生部員から徹底的に教え込まれるという。後輩が先輩の世話をする一方で、先輩はもともと信者でない後輩に対し、PL学園特有の〝信仰心〟を指導する役割も担う。付き人制度とは、単なる徒弟制度ではなかったのである。>(110頁)

 下級生が守るべきルール「鉄の掟」も出来上がっていた。先輩に対する受け答えは「はい」もしくは「いいえ」のみ。お菓子禁止、ジュース禁止、湯船に浸ってはならず、頭髪は石鹸で洗い、シャンプーの使用は禁止。1年生は食事の際に調味料を使ってはいけない――などなど、不可解なルールも数多く存在した。

 だが、そのばかばかしさもPLの伝統となっていった。もしそれを破る者が現れたら、連帯責任で、1年生全体が文字通り痛い目に遭う。<3年生のキャプテンがまずは2年生の責任者を呼び、「お前らの教育がなっていない」と注意する。そして〝神様より偉い〟と部内で囁かれる主将から指導を受けた〝平民〟の2年生は、同じ過ちを繰り返さないように、〝奴隷〟である1年生に対して連帯責任を問う。その手段が暴力だった。>(116頁)


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