夏の大会が終わって新チームになった。62期生12人だけのチームだ。最初の公式戦、秋季大阪大会の初戦は公立校だった。
4番を打つ藤原光希に2本の本塁打が出て互角の戦いとなったが、延長の末サヨナラ負け。PLが公立高との初戦に敗れるのはチームの草創期以来だった。61期生が活動していた15年夏までは、「外部コーチ」として黄金時代のOB2人が指導に来ていたが、学園の意向で新チームからはコーチがいなくなった。
<野球経験のない監督がサインを出すことの、思わぬ弊害もあった。(略)ある選手はこう振り返った。「校長先生がサインを出してくれるんですけど、けっこう間違うことがあったんです。『待て』のサインをベンチの部員が支持しているのに、『盗塁』のサインを出して失敗したり、スクイズのサインを間違えたり……。ただ、それを言い訳にはできません。僕らが弱かっただけです」>(186頁)
12人の62期生による幕引きとは
16年になると、2代目の校長監督の草野が定年退職し、チームを去った。後任の監督は剣道部OBでの川上祐一が就任した。ユーチューブで野球のルールを覚えようとするなど、川上も努力したが、付け焼刃でしかない。62期生が3年になって最初の練習試合は近大泉州高。0-14で大敗した。
公式戦の初戦は春季大阪大会。PL学園は太成学院の0-9でコールド負け。甲子園へのラストチャンスとなる夏の大阪大会の組み合わせで、初戦は東大阪大柏原に決まった。52期生のエースで、大リーグ・ツインズにいる前田健太が準々決勝で敗れ、甲子園を逃した時の因縁の相手だ。
16年7月15日。東大阪市の花園中央公園野球場。12人の野球部員で臨んだPL学園は初回に2点を先取し、逆転されたものの七回に再逆転する粘りを見せたが、八回に再び柏原に逆転され、6-7で敗退が決まり、60年に及ぶ野球部の歴史にピリオドを打った。グラウンドに突っ伏した12人の耳に、スタンドからの自然発生的な歌声が届いた。校歌だった。
<ああ、PL PL 永遠(とわ)の学園 永遠の学園>